本佐倉城 (もとさくらじょう) (将門山城) (国の史跡)
所在地 千葉県印旛郡酒々井町本佐倉829−1 2014.1.22
本佐倉城 (もとさくらじょう) (将門山城) (国の史跡)
所在地 千葉県印旛郡酒々井町本佐倉829−1 2014.1.22
4郭
堀切
倉跡
二の丸(奥ノ山)
二の丸(奥ノ山)・堀切
本丸(城山)・土塁
北の山頂
本佐倉城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★☆】
【案内・感想】 国道296号線「上本佐倉」交差点より北に右側の細い道に入り、妙見神社のある丘陵の東を通って約1.3㎞行くと、東山馬場があり、駐車場が用意されている[マップコード27 826 079*13]。
その南の高台が城山と呼ばれる本丸である。その脇を南に登ってゆくと堀切があり、その南が二の丸(奥ノ山)で土塁が巡らされ広い曲輪がある。
倉跡が西の少し下がったところにあり、堀切を通って東にゆくと城山の虎口に至る。
本丸(城山)は土塁で囲われ8棟の建物跡が表示され塀や櫓、門の表示が立ててある(生憎積雪で縄張りは埋まっていたが)。西の高台に諏訪神社が建てられている。
北の小高い山からは京成本線が通る田園が望める。京成本線近くまで印旛沼が広がり、本佐倉城近くまで湿地帯であったそうだ。
平成10年(1998年)9月11日、国の史跡に指定された。
【歴史】 室町時代後期に馬加氏(まくわりし)は千葉宗家を倒して家督を奪うが、将軍足利義政の命により千葉実胤・自胤を支援した東常縁に討たれ滅亡した。太田道灌も千葉実胤・自胤を支援した。
馬加康胤の子・千葉輔胤は古河公方足利成氏と結んで下総国を平定したため宗家の地位を確保し、文明年間に本拠地を亥鼻城より内陸の本佐倉城に移した文明十一年(1479年)千葉輔胤が太田道灌に攻められ追われて籠城したのが臼井城であったことから、完成はこの年以降と考えられる)。
その後九代にわたって戦国大名千葉氏の本拠地であった。戦国時代、常陸国の佐竹氏、小弓公方足利義明や安房国の里見氏の侵攻を受けるようになり、北条氏康と姻戚関係を結び後北条氏の支援をもとに所領を守った。
第26代当主を継いだ千葉親胤は、弘治三年(1557年)原親幹によって暗殺されてしまい、続いて第29代当主を継いだ千葉邦胤が天正十三年(1585年)に家臣の手で暗殺されるなどの混乱が続いた。
天正十八年(1590年)、第31代当主千葉重胤の時に豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、千葉氏も改易され所領を没収され、戦国大名としての千葉氏は滅亡した。
重胤は徳川家康に仕えたが、後にそれも失い浪人となった。他には仙台藩や一関藩に仕えた者もいる。本佐倉城は関東入りした徳川家康に接収された。
慶長十五年(1610年)軍事上の必要から小笠原吉次、土井利勝が再び本佐倉城に入って、佐倉藩の藩庁が置かれた。
慶長二十年(1615年)一国一城令により藩庁が佐倉城に移され、廃城となった。