菅谷館 (すがややかた) (菅谷城) (国の史跡)
所在地 埼玉県比企郡嵐山町菅谷757 2013.9.28
菅谷館 (すがややかた) (菅谷城) (国の史跡)
所在地 埼玉県比企郡嵐山町菅谷757 2013.9.28
案内図
二ノ郭
畠山重忠像
本郭土塁・空堀
本郭・土塁
南の郭
木橋・西ノ郭
菅谷館 本郭跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道254号線バイパスの南側に菅谷城跡があり、「県立嵐山史跡の博物館」(表記番地)の駐車場が利用できる[マップコード91 744 155*76]。
西に「三ノ郭」、「蔀(しとみ)土塁」、復元木橋の西に「西ノ郭」、南に「二ノ郭」、土塁上に畠山重忠像、堀と土塁に囲われた「本郭」がある。現在見られる遺構は、後北条氏時代のものとされる。
その南西に南ノ郭があり、その南に都幾川が流れている。草刈作業のエンジン音があちこちから聞こえていた。
昭和四十八年(1973年)5月16日、国の史跡に指定され、平成二十年(2008年)3月28日「比企城館跡群」とし、松山城跡、杉山城跡、小倉城跡が追加された。
【歴史】 鎌倉幕府の有力御家人畠山重忠の館跡である。元久二年(1205年)、畠山重忠が武蔵国二俣川(現・横浜市旭区)で戦死したのちは畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられたというが、十五世紀後半に至るまでの詳細は不明である。
長享二年(1488年)山内上杉氏と扇谷上杉氏の合戦が行われた(須賀谷原合戦)。山内上杉顕定の命を受け、太田資康が扇谷上杉朝良の拠点である河越城(川越城)の抑えとして旧城を再建した。この戦乱(長享の乱)で山内上杉氏が勝利し十六世紀前半迄、居城とした。
その後、天文十五年(1546年)河越夜戦の後、この地に進出した後北条氏の城として小泉掃部助が城代となり、戦国末期まで守備していた。