川越城 (かわごえじょう) (初雁城・霧隠城・河越城) (県の史跡)(日本100名城19)
所在地 埼玉県川越市郭町2-13-1 2013.8.20 2014.3.21 2020.6.15
川越城 (かわごえじょう) (初雁城・霧隠城・河越城) (県の史跡)(日本100名城19)
所在地 埼玉県川越市郭町2-13-1 2013.8.20 2014.3.21 2020.6.15
市役所前の川越城図
本丸門跡の碑
本丸御殿
三芳野神社
富士見櫓跡
霧吹きの井戸
中ノ門堀
川越城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【感想】 新河岸川右岸の平地にあり、周辺は川越の市街地と化している。本丸御殿が保存され、御殿内部は有料で一般公開されている。川越城は中世においては河越城と記されることが多い。
南西に富士見櫓跡の櫓台が見られ、西側に中ノ門堀跡が復元されている。
【案内】 本丸西から八幡曲輪にかけて川越高校があり、その東の初雁公園駐車場が利用できる[マップコード14 014 521*17]。
駐車場前に「川越城本丸門跡」の碑が建てられ、南側に川越城の本丸御殿(表記番地)が保存されている。御殿の東には三芳野神社が祀られている。
御殿の北の二の丸には川越市立博物館・美術館が建っており、「霧吹き井戸」が博物館前に保存されている。
駐車場から西へ約300m歩くと、「中ノ門堀跡」が復元されている(地図)
川越市役所に「川越城図」の石碑や太田道灌像が建てられている。
本丸の南西隅の高台に富士見櫓跡(地図)があり、北に御嶽神社、浅間神社、富士見稲荷神社がある。
大正十三年(1924年)埼玉県指定史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(19番)に選定された。
【歴史】 長禄元年(1457年)古河公方に対するため、扇谷(おうぎがやつ)上杉持朝は家宰の太田道真・道灌父子に築城させた。また江戸城も築城させ、古河公方への防衛線を構築した。持朝が初代城主となり扇谷上杉氏の居城は6代続いた。
北条氏綱は武蔵国征圧のため、武蔵国を支配していた上杉氏の居城・河越城に侵攻、大永四年(1524年)から天文十三年(1544年)まで四度にわたる争奪戦が行われた(総じて「河越城の戦い」という)。
天文十五年(1546年)河越城奪回をはかる扇谷上杉朝定は、古河公方(足利晴氏)・山内上杉憲政と連合を組み、大軍で河越城を包囲し(8万名)後北条氏との決戦に臨んだ。また今川義元、武田信玄と連携し駿河と武蔵でほぼ同時に後北条氏に対する軍事行動に出ることで圧迫を強めた(第二次河東一乱)。
「黄八幡」で有名な北条綱成(3千名)は半年に及ぶ籠城で抵抗、同年四月、ついに砂窪(砂久保陣場)に陣取った後攻めの北条氏綱(8千名)による夜襲で連合軍を撃退、扇谷上杉氏は滅亡、山内上杉氏はのちに長尾景虎のもとに逃亡することになった(河越夜戦)。
後北条時代の城主は北条氏綱、北条氏康、北条氏政であり、城代として北条綱成、大道寺盛昌、重興、政繁、直繁、直英が務めた。
天正十八年(1590年)秀吉の北条攻めに際し、河越城を守っていた後北条氏の宿老の大道寺政繁は上野国まで出陣して迎え撃つが、降伏し、前田利家の軍勢は河越城に入城した。
家康の関東入りで、譜代酒井重忠が1万石で川越に入封され川越藩を興した。酒井氏二代・堀田氏の後、寛永十六年(1638年)一月、大河内松平家・松平伊豆守信綱が忍藩より6万石にて移封された。
承応二年(1653年)信綱により、大拡張工事がなされ寛文年間に完成し、倍の規模の近代的城郭になった。中郭、追手郭(あわせて外郭)、北東に新郭、東に帯郭、南に田郭が付加された。
柳沢氏を経て、正徳元年(1711年)秋元喬知(たかとも)が甲斐谷村より移った。
明和四年(1767年)松平朝矩が利根川の浸食を受けた前橋城より移った。
嘉永元年(1848年)、松平斉典により本丸御殿が入母屋造りで建てられた。その後松井松平氏が入った。
明治元年(1868年) 松井松平家・松平康英が明治政府に恭順の意を示すため、堀を埋めている。
明治二年(1869年) 川越藩が新政府に川越城の老朽化した建物を取り壊したい旨を届け出、城の部分的取り壊しが行われた。