成沢城 (なりさわじょう) (鳴沢城)
最寄地 山形県山形市蔵王成沢1227 2015.6.11
成沢城 (なりさわじょう) (鳴沢城)
最寄地 山形県山形市蔵王成沢1227 2015.6.11
登城ルート
堀切(道路)
土塁
主郭・四阿
八幡神社奥宮・城趾標柱
二の丸・馬頭観音堂
成沢城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 表記番地の南に成沢城跡公園として整備され、駐車場トイレが設置され[マップコード273 444 251*04]。道路となっている堀切があり、その横に登り口がある(地図)。
登って行くと、大手口との合流地点に土塁が残り、直進すると主郭で、右に暫く行くと、二の丸跡に着く(地図)。
比高25mほどの主郭跡には四阿、説明板、「成沢城跡」の標柱が建てられている。北側に八幡神社奥の宮、秋葉社が祀られている。
二の丸には馬頭観音堂が建立されている。
【構造】 東西約350m、南北約580m、主郭の標高199.4m、麓からの比高約57mの丘陵に築かれ、城の内部には多数の曲輪や土塁を設置し、その間に効果的に通路を通し巧みに防御する構造となっている。また鳴沢川を天然の堀として利用している。
南山麓には八幡神社(山形市蔵王成沢1119−1)があり、平安時代末の凝灰岩の石鳥居が国の重要文化財に指定されている(昭和27年11月22日)。
【歴史】 南北朝時代の延文元年(1356年)、山形に入部した斯波兼頼が翌年山形城を築き、永徳元年(1381年)兼頼の孫兼義が成沢の泉出に城を築いた。
永徳三年(1383年)御神託により山頂に鎮座していた八幡宮を現在地に移し、その跡地に城を築いたと言われている。
『奥山家家伝記』(寛永九年・1632年)によれば、城は「高さ72間、南北17間、東西45間」とあり、山形城南方の守りの第一線として重要な城であった。
天正六年(1578年)最上義光と上山満兼とが、松原柏木山で戦った際に、城主成沢道忠の成沢城は山形防衛の前線となった。
元和八年(1622年)氏家氏1万7千石が城主の時、最上家の改易と共に廃城となった。『山形市成沢郷土史研究会説明板』より。