砂越城 (さごしじょう)
所在地 山形県酒田市砂越楯之内232 2016.6.9
砂越城 (さごしじょう)
所在地 山形県酒田市砂越楯之内232 2016.6.9
本丸公園・長応寺
本丸公園・土塁・遊具
諏訪神社・本丸跡碑
模擬櫓
水堀・模擬引橋
砂越城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道205号線より南に行った諏訪神社(表記番地)一帯が本丸跡である[マップコード90 800 393*56]。
南東に土塁がよく残り、南西に模擬櫓が建てられている。諏訪神社の前に、「砂越城本丸跡」の石碑が建てられている。西側に堀が残り模擬引橋が架けられている。
東の二の丸跡は長応寺となっている。
【歴史】 築城時期は明らかではないが、久寿元年(1154年)に播磨国の豪族・赤松氏の三男である石黒氏が築いたとされる。
文治五年(1189年)、源頼朝が平泉の藤原氏との奥州合戦において功のあった砂越氏は出羽国の郡司に任じられた。
嘉吉三年(1443年)、砂越城主氏信は合戦に敗れ砂越城は落城し、その後斯波氏4代の矢口将監氏益が城主となった。
文明十年(1478年)、砂越六郎氏雄(うじたか)は東禅寺氏と結び、大宝寺城の大宝寺氏と対抗した。
その後、永正九年(1512年)、両者の戦いが勃発し、砂越氏が勝利した。しかし翌年に再び合戦が起き、砂越氏雄は敗北し、討死もしくは自刃して、砂越氏は没落した。大宝寺氏一門の氏維(うじふさ)が砂越氏の名跡を継いだが、次第に独立色を強めていった。
天文元年(1532年)砂越武藤氏維は本家の大宝寺城を攻め焼きはらった。
天正十五年(1587年)、大宝寺氏の当主・義興が最上氏の支援を受けた東禅寺義長の反乱により滅亡すると、庄内の地は東禅寺氏が支配する事となった。
翌天正十六年(1588年)、上杉氏の重臣である本庄繁長が庄内に侵攻し、十五里ヶ原合戦が起きた。
この戦いで砂越城は東禅寺氏に攻められ、砂越氏は青沢へ退却し、その後、砂越武藤氏は安東氏に仕えた。後に安東氏が秋田氏に改称し、三春へ転封した際、武藤氏維もこれに従った。
その後、砂越城は上杉氏の家臣・荒川玄蕃が城代となったが、慶長六年(1601年)、上杉氏が最上氏に敗れると、最上氏の家臣・荒井右衛門が城代となった。
元和二年(11616年)廃城となった。