水沢城 (みずさわじょう) (水沢要害)
所在地 岩手県奥州市水沢区大手町1丁目2 2014.8.16
水沢城 (みずさわじょう) (水沢要害)
所在地 岩手県奥州市水沢区大手町1丁目2 2014.8.16
説明案内板
合同庁舎
説明案内板
三の丸曲輪「姥杉」
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 奥州市役所、奥州地区合同庁舎の東側中央に城跡看板があり、三の丸曲輪にあった「姥杉」を見ることができる [マップコード142 797 845*08] (地図)。
【歴史】 築城者・築城時期は不明であるが、天正十八年(1590年)豊富秀吉の奥州仕置により小田原征伐に参陣をしなかった葛西氏は改易となった。
同地は木村吉清の領地となり、水沢城にはその家臣・松田源太郎左衛門が配置された。
これらの領土仕置を不満としていた旧葛西・大崎両氏家臣や領民は一揆をおこす(葛西大崎一揆)。
しかし、この一揆扇動に伊達政宗が関わっている疑いがかけられ、秀吉の命令で政宗により一揆が鎮圧された。政宗の一揆扇動の嫌疑は晴れたものの、石高が減らされ米沢から旧葛西領・大崎領(岩出山城)へ転封となった。
天正十九年(1591年)豊臣秀吉が一揆を平定した後、家臣上杉景勝が修復し、伊達氏の家臣白石宗実が、福島県大森城から1万5千石をもって水沢城へと領地替えになった。
宗実の死後、梁川宗清より養子をむかえ白石宗直が慶長四年(1599年)城主となった。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで東軍徳川家康についた政宗は、戦いの長期化を見込み、同じ東軍南部領を抑えるべく和賀郡旧領主和賀義忠の嫡男和賀忠親を支援し岩崎一揆を起こす。
しかし、関ヶ原の戦いが一日で終結したため一揆が露呈し、政宗の家臣白石宗直が忠親を水沢へ匿い一揆勢を支援した事が家康に知れるところとなり、東軍勝利の際に政宗の禄高百万石加増の約束「百万石のお墨付き」を反故にし、忠親は仙台にて処刑された。宗直は、慶長九年(1604年)寺池城に転封となった。
慶長六年(1601年)、政宗は居城を岩出山城から仙台城に移し、水沢城は仙台藩の一部となった。
その後、一国一城令に伴い城から水沢要害(伊達21要害の一つ)と名称が変わり、当初は代官が置かれていたものの、柴田外記宗朝、石母田宗頼と領主が変わった。
寛永六年(1629年)伊達政宗の従兄弟にあたる伊達(留守)宗利が1万6千石で入ると、以後は宗利を祖とする水沢伊達氏の支配が明治維新までの約240年間続いた。水沢要害と呼ばれ、本丸、二の丸、三の丸、南曲輪などに分れていた。
土塁には杉や松が植えられていたが、現在はこの三の丸の土塁上の「姥杉」が残るのみである。奥州市役所、奥州地区合同庁舎が三の丸に建てられ、市役所正面玄関の北側に大手門や太鼓櫓、天保十二年(1841年)藩校立生館が置かれていた。
三の丸の北西にあった本丸、二の丸があった辺りは住宅地となって遺構はない。