寿能城 (じゅのうじょう)
所在地 埼玉県さいたま市大宮区寿能町2‐155 2013.11.27
寿能城 (じゅのうじょう)
所在地 埼玉県さいたま市大宮区寿能町2‐155 2013.11.27
城跡碑
寿能公園
塚・墓碑・城跡碑
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 「壽能會館」(表記番地)の建つ寿能公園一帯が本丸跡である[マップコード3 602 120*15] 。
「潮田出羽守源資忠之墓」と「寿能城跡」の石碑のある塚は物見櫓跡(地図)と云われている。その横に説明板が建てられている。
昭和三十七年(1962年)10月1日、埼玉県の史跡に指定された。
【歴史】 戦国時代、北条氏、特に川越城への備えのために、岩槻太田氏が岩槻城の支城として永禄三年(1560年)頃築かれたと云われている。
その立地はかっての見沼が三方を囲み、自然の要害であった。初代城主の潮田資忠は通説では、当時の岩槻城主の太田資正の4男とされている。
その後、太田資正の嫡男氏資が後北条氏方に属して岩槻城主になると、寿能城も後北条方の城になった。
30年経て天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めに際し、城主の潮田資忠・資勝父子は四月十八日に小田原城にて戦死した。
寿能城も豊臣方の浅野長政軍のに攻められて落城し、家来やその妻子は見沼に身を投げたと言われる。このことから、大正から昭和初めに村人に供養を願って現れた蛍になった姫の話が伝わっている。
徳川家康の治下に一帯の開発が命ぜられ、城址はほとんど失われた。太平洋戦争時には城址に高射砲陣地が敷設され遺構の破壊が更に進んだ。
寿能公園に建つ潮田資忠の墓碑は資忠の子孫が元文三年(1738年)に建立したものである。