古間木城 (ふるまきじょう)
所在地 茨城県常総市古間木357 2015.2.21
古間木城 (ふるまきじょう)
所在地 茨城県常総市古間木357 2015.2.21
城址碑
土塁
空堀
空堀
北側土塁
古間木城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 渡辺食品㈱(表記番地)の敷地であり、工場の西に土塁・空堀が残っている(地図)。
東門前に「下総国古間木城之略図」(裏に系図)、「古間木城址」(由来文)の石碑が建てられている。
【歴史】 室町時代、結城氏は重臣多賀谷氏を下妻に配し、小田氏の抑えとした。下妻城主多賀谷家植は文明十四年(1482年)豊田領北部に侵入し南侵行動を開始した。
『渡邉軍記』によれば、古間木城主渡邉新兵衛尉宗隆と長子宗重は、北総の将士と共に古河公方足利成氏に従い、文亀三年(1503年)野田城(現野田市)や永正十六年(1519年)椎津城(現千葉県市原市)等に出陣した。公方から感状を受け、功により平塚村(現八千代町)を賜った。
戦国時代に入り、結城氏、小田氏の二大勢力の影響下にあって、1万貫の領地を治め家門を維持するも、自衛のため、隣城向石毛の館武蔵守と縁を結び猿島勢と共に多賀谷氏の南侵にそなえた。
多賀谷軍は天文四年(1535年)正月三日、豊田郡を攻めようと、向石毛城を急襲攻略した。
城主館武蔵守は討死し、長子播磨は母方の古間木城に落ち、重臣増田・松崎・大類・斉藤等は石毛を頼った。
永禄年間(川中島合戦の頃)多賀谷氏は再び南侵を企てた。石毛城主政重は廻文し、古間木城主周防守勝重初め石塚・羽生・染谷・横瀬などの岡田・猿島の諸将がこれに応じ千本木(現千代川村)に多賀谷軍を迎え、死闘を繰り返すも、結城城主の仲介により和睦した。
天正三年(1575年)豊田領を手にした多賀谷氏は、翌年、700余の兵を以て古間木城に攻め寄せた。城主勝重は廻文し、羽生・石塚・花島・大輪の将士はこれに応じ、200余の兵は籠城し防戦した。攻めあぐんだ多賀谷軍は、大高山などに火を放ち、折からの風に煽られ、火は城に及んだ。兵は城門を出て必死に戦うも、衆寡敵せず勝重は討死し、落城した。播磨は敵より勝重の首を奪い返し、落ちようとするが、行く手を絶たれ多賀谷氏に降った。
守谷城主相馬胤房は相馬、猿島勢を率い、古間木城の救援に向かったが、時すでに遅く花島(現水海道市)に陣した多賀谷軍と、合戦するも利あらず守谷に帰城した。
播磨はその後仏門に入り岩舟山で修業し、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの翌年、下妻多賀谷氏が石田方に与したとされ、領地没収追放された後、向石毛城址に法輪寺(常総市向石下121)を建立し祖先の菩提を弔った。『古間木城址撰文』より。