伊勢崎陣屋 (いせざきじんや) (赤石城・伊勢崎城)
所在地 群馬県伊勢崎市曲輪町28 2015.1.14 2022.6.18 2024.10.12
伊勢崎陣屋 (いせざきじんや) (赤石城・伊勢崎城)
所在地 群馬県伊勢崎市曲輪町28 2015.1.14 2022.6.18 2024.10.12
北小学校・旧時報鐘楼
旧赤石小学校の門柱
図書館西
同聚院の武家門
同聚院北西の堀跡
稲垣氏歴代の墓(右から3基目が長茂の宝篋印塔墓)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 広瀬川左岸にある曲輪町の内、同聚院の南から伊勢崎郵便局付近までが城域で、中心部には市立北小学校(表記番地)が建てられている。
赤石城南隣に陣屋が建てられ伊勢崎城とも呼ばれる。 北小学校には、旧時報鐘楼が復元保存され、東側に赤石小学校時の門が残る(地図)。
旧時報鐘楼は大正四年(1515年)地元出身の貿易商小林桂助により建造され、戦時中焼失したが、近年復元された。
同聚院(伊勢崎市曲輪町14)の武家門は稲垣長茂の屋敷門と推定されている。 移動工事中であった。
同聚院から西側にかけてが、赤石城(伊勢崎城)であり、北側に空堀跡が見られる。
天増寺(伊勢崎市昭和町1645)に伊勢崎藩主稲垣氏歴代の墓がある[マップコード20 564 688*08] 。
【歴史】 大永三年(1523年)頃、北約4kmの飯土井町にあった赤石城主・赤石左衛門尉がこの地に移り、同聚院西に赤石城を築いたとされる。
慶長六年(1601年)、当地に封じられた譜代大名稲垣長茂により伊勢崎藩1万石 の藩庁として赤石城南隣に陣屋が築かれた。長茂は慶長十七年(1612年)没し、嫡子重綱が家督を継いだ。
元和二年(1616年)2代藩主重綱の時に越後藤井2万石の城主として 転封となり、替わって酒井忠世が封じられたが、忠世が本家前橋藩を継いだため、一時期伊勢崎藩は廃藩となり陣屋も廃止された。
その後60年余りして2万石を分けられた酒井忠寛が入り、本家の転封により播磨姫路藩の分家として陣屋が再建された。
以降、江戸時代末まで維持され、9代忠彰(ただあき)の時、明治維新を迎えた。
赤石小学校は、明治六年(1873年)六月九日に本光寺を仮校舎として開校され、のちに、伊勢崎陣屋内藩校学習室に移り、明治十五年(1882年)門柱の残る現在地に新校舎が落成した。校名は、6度の改称を経て現在[北小学校]となっている。