津久毛橋城 (つくもばしじょう)
最寄地 宮城県栗原市金成津久毛平形松迫93−2 2019.10.1
津久毛橋城 (つくもばしじょう)
最寄地 宮城県栗原市金成津久毛平形松迫93−2 2019.10.1
登城ルート
登り口・説明板
下段の郭
標柱・帯郭
切岸
主郭・帯郭
杉目行信の供養碑
津久毛橋城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高20m】
【感想】 栗原市金成津久毛の比高20m弱の小山に築かれており、帯郭が階段状に設けられている。東側に腰郭がある。
主郭には「杉目太郎行信の供養碑」と右側に「杉目行信公御室」の小祠がある。
【案内】 県道186号線の表記番地西に登り口があり、説明板が建てられている[マップコード319 259 294*45]。
【歴史】 『吾妻鏡』に、「文治五年(1189年)八月二十一日、二品(源頼朝)松山道ヲ経、津久毛橋ニ到リ給フ。梶原平二景高一首和歌ヲ詠ムノ由之ヲ申ス。陸奥ノ勢ハ御方ニ津久毛橋渡シテ懸ン泰衡が頚」という和歌がある。
源頼朝は海、陸、山の3道から20万の大軍をもって平泉の藤原泰衡を攻め進んだという。その頃、三迫川沿岸一帯は江浦藻(つくも)が生い茂る低湿地帯であり、この藻を刈り敷き詰めて全軍を渡したという時の歌である。
文治五年閏四月三十日、義経は自刃したと『吾妻鏡』にある。
しかし、自刃したのは影武者で、源義経の身代わりになって自害し、義経を蝦夷地へ落としたという杉目太郎行信の供養碑がある。
南北朝時代、興国二年(1341年)九月北畠顕信が南朝回天の最後の拠点を津久毛橋城に築き、足利尊氏方の武将石塔義房は釜糠城に陣を張り大合戦を展開した。