高津戸城 (たかつどじょう)
最寄地 群馬県みどり市大間々町高津戸559 2013.11.29 2022.6.18
高津戸城 (たかつどじょう)
最寄地 群馬県みどり市大間々町高津戸559 2013.11.29 2022.6.18
登城ルート
3郭・2郭切岸
2郭・主郭切岸
主郭・要害神社
北郭・堀切
山田氏及び里見氏の墓
高津戸城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【案内・感想】 県道338号線より「大間々地区第十四区集会所」(表記番地)の東の交差点を北に約370m行き、三叉路を左折約600m行くと終点に駐車場が用意されている[マップコード261 079 035*06](地図)。
西に要害神社参道があり、朱塗りの鳥居前に竪堀が残っている。参道の右手に2段の郭が見られ、遊具のある2郭があり、最高所に要害神社の建つ主郭がある。
朴落葉が一面散り敷いており、背後に帯郭が残っている。北側に下ると、北郭があり、その先に2条の堀切が見られる。
南麓の阿弥陀堂横に山田氏・里見氏の五輪塔がある[マップコード261 049 579*67](地図)。
【歴史】 承徳・康和年間(1097~1104年)山田七郎平吉之が創立した。しかし観応二年(1351年)十代目山田筑後守則之(範行)の代、桐生国綱の家臣・谷(やつ)四郎直綱に攻め滅ぼされた。
その後、建徳二年(1371年)里見家七代義連の三男・氏連が桐生国綱の娘を正室に迎え仁田山八郷に入り、高津戸城主となった。
里見氏連の4代後の宗連の時、天正二年(1574年)九月謙信に攻められ宗連が自刃した。宗連のもとに身を寄せていた房州里見実堯(勝広)は二子勝政と勝安を謙信に預け、自らは桐生氏に逃れ桐生氏の客分となった。
だがこのことが桐生親綱に、謙信への内通と疑われ、元亀元年(1570年)三月二十日詰め腹を切らされた。
天正四年(1576年)の十月、二子(勝政・勝安)は謙信の許可を得て高津戸城に隠れ、天正五年(1577年)五月二日に用明の砦を襲ったが、由良国繁に属する城主石原石見守を逃がしてしまう。
天正六年(1578年)九月十八日由良国繁に攻められ勝安(二十五歳)は討死、兄勝政(二十八歳)は城兵の助命を条件に自刃した。