久留里城 (くるりじょう) (雨城・霧降城・浦田城)
所在地 千葉県君津市久留里448-1 2012.8.29 2015.4.5
久留里城 (くるりじょう) (雨城・霧降城・浦田城)
所在地 千葉県君津市久留里448-1 2012.8.29 2015.4.5
登城ルート(緑線は車道)
堀切跡
北尾根の堀切
二の丸跡
天守台跡(手前)・模擬天守
天神曲輪
久留里曲輪
久留里城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高80m】
【案内・感想】 国道410号(久留里街道)の大きな「久留里城趾入口」石碑(カーブミラーに隠れて見にくい)の交差点より東に折れ、標識に従って登ると間もなく広い駐車場が用意されている[マップコード49 145 501*71](地図)。
舗装された道に「堀切跡」の標柱が立てられている。右の旧道を登って行くと「火薬庫跡」があり、2ヶ所「堀切」が残っている。新道付近に「お玉が池」、「薬師曲輪」、があり「里見北条古戦史」の石碑が建てられ、眼下に三の丸跡(地図)が望める。
二の丸には「久留里城址資料館」(表記番地)が建てられ、その前には、新井白石の銅像が建てられ、塀が復元され、上総掘りの設備が展示されている。大手道の左に久留里曲輪があり、歌碑句碑が建てられている。
しばらく行くと「男井戸女井戸」が残っている。「波多野曲輪」「天神曲輪」があり、その先最高所に本丸跡がある。
駐車場より比高約80mの本丸跡には望楼型二重三階の模擬天守閣(閉館)及び築地塀が復元され、天守台跡の土壇があり、高台に「丹生廟遺跡」がある。本丸の南端に昭和54年「久留里城再建記念碑」が建てられている。
【歴史】 室町時代、上総武田氏の祖となった武田信長が康正元年(1455年)に上総国守護代に任ぜられ、翌康正二年(1456年)に築城された(古久留里城)。
以後は信長の子孫である真理谷(まりやつ)氏が支配した。戦国時代には真里谷氏は衰えた。
代わって里見氏の拠る所となり、天文四年(1535年)里見義堯はこの地を本拠とし、改めて古久留里城(上の城)の下に新たに現在の城地に久留里城を築いた。
永禄七年(1564年)、北条軍の上総侵攻により城は一時陥落した。その後、再び里見氏が奪還した。
天正十八年(1590年)豊富秀吉による小田原征伐の際に、里見義康は参陣を命じられたが従わず、秀吉の不興を買い安房一国の領有はゆるされたが、上総国の所領を没収された。
この年に徳川家康が関東に入封し久留里城には松平(大須賀)忠政が3万石を与えられ入城した。忠政は城下町整備に尽力し後の基盤が出来上がった。その後江戸時代には久留里藩の政庁が置かれた。
慶長六年(1601年)松平(大須賀)忠政が関ヶ原の戦いの功により3万石加増の上、駿河国横須賀城に転封となった。代わって土屋忠直が2万石で入城した。新井白石(1657年~1725年)は幼少時を久留里で過ごし二代藩主土屋利直に可愛がられた。三代土屋直樹は延宝七年(1679年)改易となり廃藩、一時廃城となった。
寛保二年(1742年)上野国沼田城より譜代大名の黒田直純が3万石で入城し再び立藩した。黒田氏は九代直義の明治維新まで続き居城した。
明治五年(1872年)廃城令により久留里城の歴史は終わった。昭和三十年(1955年)に城郭跡地の国有地を借り受けて城山公園として整備された。
昭和五十四年(1979年)には模擬天守が土壇の天守台脇に鉄筋コンクリート造にて建造された。