高倉城 (たかくらじょう) (松峯城・高倉館)
最寄地 福島県郡山市日和田町高倉高倉172 2020.4.12 4.19
高倉城 (たかくらじょう) (松峯城・高倉館)
最寄地 福島県郡山市日和田町高倉高倉172 2020.4.12 4.19
墓地先の説明板
登城ルート
山清寺
南の郭
南東帯郭
南東の主郭切岸
主郭虎口・土塁
主郭南側・土塁
人取橋古戦場
高倉城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高100m】
【感想】 阿武隈川に注ぐ五百川右岸の標高319mの山頂に築かれている。
主郭は高い切岸や土塁が巡っているが、鬱蒼として全体は見えなかった。主郭南東に帯郭や、横堀がある。南側と北東下段に広い郭が残っている。
【案内】 県道355号線の山清寺(表記番地)入口に標柱が建てられている[マップコード129 182 766*01]。
本堂から東の墓地上段に駐車出来、登り口に説明板が建てられている(地図)。
500m程登ってゆくと、主郭南に着き南東から東にかけて帯郭がある。
北方2.5kmの国道4号線左側に人取橋古戦場跡があり、標柱、説明板が建てられ、合戦で討死した「茂庭(鬼庭)佐月藤原良直」の墓が祀られている[マップコード129 272 361*05](地図)。
【歴史】 築城の時期ははっきりしないが、明徳年中(1390~94年)、二本松氏(二本松畠山氏)の家督争いに敗れた畠山政泰が、高倉に移り築いたとされる。政泰は後に高倉氏を称した。
その後、2代満国、3代實詮、4代晴賢、5代氏詮までの居城となった。
天正三年(1575年)、田村氏の侵攻により城主・畠山氏詮は田村清顕の支配下に入るが、その後独立した。そのため天正十年(1582年)高倉城は田村氏に攻められたが、これを撃退した。
天正十三年(1585年)十一月の人取橋の戦いでは伊達政宗に味方して戦いの前線となり、援軍として高倉近江、桑折摂津守宗長、伊東肥前守重信、富塚近江守らが入城した。
天正十六年(1588年)の郡山合戦では、伊達政宗に接収され、石垣などが整備され伊達方の拠点となった。
天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置では、城主・畠山氏詮は伊達領へ移され、空城となり再度使用されることもなく、元和年間(1615~24年)に廃城になった。