益子城 (ましこじょう)
最寄地 栃木県芳賀郡益子町大字益子811−2 2020.7.5
益子城 (ましこじょう)
最寄地 栃木県芳賀郡益子町大字益子811−2 2020.7.5
登城ルート
平野家屋敷・門
右斜めに登る
帯郭(東側)
2郭(奥が主郭)
南西の益子小学校
益子城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高20m】
【感想】 益子町大字益子の南西から北東に伸びた比高20m程の丘陵に築かれている。
訪れた時は小雨で、躊躇したが平野家から斜めに登る道が見え登って見た。道は途中で無くなり、仕方なく直登したが低い篠が密生し靴を濡らして北東の2郭に着いた。
その先に主郭らしい小高い所が見えたが、似たような篠地と思われ、帯郭だけ見て引き返した。
【案内】 県道41号線「益子」交差点より東に100m程行き、右折150m程行った表記番地生垣前に駐車した[39 177 071*61]。
50m程戻り、西に入ると平野家屋敷の塀と門がある。その南端より斜めに登り、中間から直登すると2郭に出る。2郭の北から東にかけて帯郭があり、南西に主郭がある。
南西側は益子小学校用地となっている。
【歴史】 築城時期ははっきりしないが、益子古城の益子氏が益子城を築いて移ったと云われ、戦闘時は西明寺城を詰城としたとされる。
益子氏は紀姓で、清原姓芳賀氏と共に紀清両党と呼ばれ、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、宇都宮氏の重臣として活躍した。
天正十七年(1589年)三月、益子宮内少輔家宗の時、主家宇都宮氏の家中の勢力争いから芳賀高継により益子氏は攻め滅ぼされた。