土気城 (とけじょう) (貴船城)
所在地 千葉県千葉市緑区土気町825 2016.1.6
土気城 (とけじょう) (貴船城)
所在地 千葉県千葉市緑区土気町825 2016.1.6
城址碑
空堀跡の貯水池
二の丸跡
二の丸・本丸跡
本丸跡・土塁
クラン坂
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 「ひまわりの郷」(表記番地)に向かう道の左側に道祖神が祀られ、説明板が建てられている[マップコード27 110 090*23](地図)。約150m四方の畑地一帯が三の丸跡である。
「ひまわりの郷」(表記番地)の正面石垣に「土気城趾・ひまわりの郷」と書かれた標識がある。その前の貯水池から左の森の中にかけて空堀があり、手前に土塁(地図)が残っている。右に二の丸跡の広い平坦地がある。
本丸跡の旧日航研修所建物は高齢者賃貸住宅になり、敷地は立入禁止となっている。
その東を下ってゆくとクラン坂(地図)と呼ばれる堀道が続いており、外房線の橋の見える付近は、三叉路の堀となっている。
【歴史】 土気城は神亀元年(724年)に蝦夷制圧の為、多賀城を築いた大野東人(おおののあずまびと)によって貴船城が築かれたのが起源とされ、中世土気城の大手口にも貴船神社が祭られていた。
鎌倉時代に入り、千葉氏の一族相馬胤綱の次子土気太郎が土気の荘の地頭に任じられ居住したと云われる。
室町時代後期には、一時大関城主の畠山重康の勢力下となったが、長享元年(1487年)原氏と組んだ中野城主酒井定隆に追われた。
翌、長享二年酒井氏が移り、以降酒井氏が滅びる迄の100年余同氏の一族が拠った。後に定隆は三男隆敏と共に土気から東金に移り、隆敏は東金酒井氏の祖となった。
永禄七年(1564年)、第二次国府台合戦で土気酒井氏は里見氏に与し、里見氏の敗退後北条氏に与した東金酒井氏を含む北条勢に攻められた。この際、搦め手のクラン坂方面から北条勢が攻め寄せたとされるが、酒井胤治が良く守りこれを撃退した。その後、土気酒井氏も北条氏に降った。
天正十八年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐では、酒井氏は北条方として小田原城に篭城した。この役で北条氏が滅ぶと、酒井氏も運命を共にし、土気城も豊臣方に接収され廃城となった。