鹿島城 (かしまじょう) (吉岡城)
所在地 茨城県鹿嶋市城山1 2016.2.11
鹿島城 (かしまじょう) (吉岡城)
所在地 茨城県鹿嶋市城山1 2016.2.11
土橋
大空堀(土橋左側)
大空堀(右側)
説明板
本丸跡・土塁
公園・土壇
鹿島城跡記念碑
鹿島城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道18号線「鹿島高校北」交差点より西へ40m、右折して北へ行くと大空堀が見えてくる。土橋を通って右に行くと、駐車場が用意されている[マップコード340 150 754*66]。
土塁上に、舗装された園路が一周560mにわたって付けられている。本丸跡は、城山公園として整備され遊具のある広場や北の芝生広場となり、桜が多数植えられ桜の名所として市民に親しまれている。
本丸西に、「鹿島城跡記念碑」が建てられ、そこから北浦を望む絶景が開けている。
空堀で隔てられた南方の二ノ丸跡は、県立鹿島高校敷地となっている。
昭和六十三年(1988年)より、城主後裔の鹿島家の協力を得て城山公園として開園した。
【歴史】 平安時代末期、養和元年(1181年)常陸大掾・平国香の子貞盛は鎮守府将軍となり、活躍した。
貞盛は国香より継いだ多くの荘園を、跡継ぎの維幹に与え、多気(現つくば市北条城山)に居を構え常陸大掾を継いだ。
その曽孫・清幹は吉田に住み、清幹の三男成幹は鹿島に居を定めた。鹿島を氏とし、鹿島冠者と称した。
成幹の子・鹿島三郎政幹(まさもと)が源頼朝より総追捕使(そうついぶし)に任じられた。これに先立って頼朝は、佐竹秀経を追討するにあたり、鹿島神宮に戦勝祈願を祈願した。
その後、政幹は最初に宮本郷粟生村に住み着いた。後、当地に吉岡城を築城して移った。政幹より八世の孫幹重(もとしげ)は、正平二十三年(1368年)鹿島総大行事に任じられて、子孫が世襲した。幹重の七世の孫を義幹という。
永正の終わりころ(1520年前後)義幹(よしもと)が大改造を行い、それが高天原合戦(内紛)につながったという『鹿島治乱記』。
天正十九年(1591年)二月、鹿島・行方両郡の支族の城主はじめ鹿島清秀父子は常陸太田に呼び寄せられ、佐竹義宣に全員謀殺された。
佐竹義宣はすぐに配下の町田備中守に鹿島城を攻めさせ、落城し、清秀の妻が死んだ。
その後佐竹氏は秋田へ国替えを命じられ、徳川家康は鹿島義幹の外曽孫・国分胤光に鹿島氏を継がせ総大行事職に任命し、鹿島神宮大宮司の要職に就かせた。『鹿島城跡記念碑』説明板より。