中久喜城 (なかくきじょう) (亀城・栃井城・中岫城・岩壺城) (国の史跡)
最寄地 栃木県小山市中久喜(大字)43 2013.11.3 2017.4.26
中久喜城 (なかくきじょう) (亀城・栃井城・中岫城・岩壺城) (国の史跡)
最寄地 栃木県小山市中久喜(大字)43 2013.11.3 2017.4.26
登城ルート(緑線は車道)
1郭北西空堀・土塁
城跡碑・説明板
1郭北西土塁
1郭南東側
1郭南側切岸
1郭南の土塁
中久喜城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 城跡はJR水戸線で南北に分断されている。2郭は住宅地、3郭は園芸用畑になっており、1郭の堀、土塁の一部が残り、石碑、説明看板が堀の前に建てられている。[マップコード74 191 002*27](地図)。
東側にある城山踏切を越えて南に行くと、1郭があり切岸や土塁が周囲に残る(地図)。JR水戸線が1郭の北部分を東西に貫通している。
小山氏城跡として、平成六年(1994年)中久喜城跡が「小山氏城跡」に追加指定された。
【歴史】 久寿二年(1155年)に小山政光が築いたものとされる。小山氏は武蔵国に本領を有し藤原秀郷の後裔と称した太田氏の出自で、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った。
十四世紀後半に関東を揺るがした小山義政の乱の際、義政が鎌倉幕府と戦う拠点の一つ「岩壺城」が中久喜城ではないかと言われている。
天正十八年(1590年)に、小山高朝の子で結城政勝の養子となった結城晴朝が隠居して「中久喜栃井城」に移った。
小山と結城の中間に位置し、両者を結び付ける重要な城であったが、慶長六年(1601年)結城氏が越前に転封になると、廃城となった。