石神井城 (しゃくじいじょう)
所在地 東京都練馬区石神井台1 2013.10.30
石神井城 (しゃくじいじょう)
所在地 東京都練馬区石神井台1 2013.10.30
石神井公園の池
石神井公園の池側の城跡碑・説明板
説明板
空堀・曲輪
空堀・土塁・曲輪
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 都道444号線「三宝寺池前」交差点の西にある石神井公園となり、水堀跡が池となっている。
池の橋を渡った南の高台に、空堀と土塁に囲まれた曲輪が残っている(地図)。
1950年代発掘調査が行われ、フエンスで囲まれている。
【歴史】 豊島氏が鎌倉時代後期に居城の一つとして築城したとされる。豊島氏は葛西、江戸両氏とともに秩父流平氏で鎌倉時代には、石神井郷を領有していた。
室町時代後期、上杉禅秀の乱で足利持氏側に立った豊島氏は最盛期を迎えるが、やがて新興勢力の扇谷上杉氏側の太田氏と対立を深め、豊島泰経は武蔵守護の山内上杉顕定に背いた長尾景春に味方した。
顕定を援助していた扇谷上杉定正の重臣で江戸城主・太田道灌と対峙したが、文明八年(1476年)永尾景春の乱に呼応して、豊島泰経とその弟泰明はそれぞれ石神井城と平塚城に拠り挙兵した。
文明九年(1477七年)太田道灌は平塚城(北区)を攻め、後詰戦(江古田・沼袋原の戦い)で惨敗を喫し、泰明は戦死、泰経は石神井城に落ちた。
太田道灌は、文明九年(1477年)四月泰経を攻め石神井城を落とし、泰経は平塚城、更に小机城へと落ち延びた。
翌文明十年(1478年)小机城も落とされ、遂に豊島氏は没落した。