米沢城 (よねざわじょう)
所在地 山形県米沢市丸の内1‐4‐13 2010.10.11 2015.6.10
米沢城 (よねざわじょう)
所在地 山形県米沢市丸の内1‐4‐13 2010.10.11 2015.6.10
舞鶴橋・内堀
上杉神社
上杉謙信公之像
上杉鷹山公之像
上杉伯爵邸
菱門橋
米沢城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 内堀に囲まれた本丸跡には上杉神社、春日神社、上杉神社稽照殿、上杉謙信公之像や上杉鷹山公の坐像が建てられている。二の丸の北東側に駐車場が用意されている[マップコード515 268 753*40]。
二の丸跡(地図)には、松岬神社、米沢市上杉博物館があり、南側に上杉家14代当主茂憲(もちのり)伯爵邸が上杉記念館(明治二十九年造・大正十四年5月再建)として開設されている。
内堀は一周良く残り、「舞鶴橋」、「菱門橋」、土橋2本が残っている。
【歴史】 鎌倉幕府の重臣・大江広元の次男・時広が出羽国置賜郡長井郷の地頭として赴任した暦仁元年(1238年)に築城したとされる。以後地名より長井氏を名乗り150年続いた。
八代広房は室町時代初期(天授六年(1380年)、応永九年(1402年)、応永二十年(1413年)などの説がある。)に、伊達宗遠に侵略され、この地を追われた。安土桃山時代まで伊達氏が支配した。
天文十七年(1548年)伊達稙宗・晴宗の対立である天文の乱を経て、晴宗は本拠地を桑折西山城より米沢に移した。
天正十七年(1589年)政宗は会津黒川城の蘆名義広を攻め滅ぼし、晴宗の弟らを城代にしたが、秀吉に認められず、米沢に本拠を戻したが、天正十九年(1591年)秀吉の命で岩出山城に移された。会津は蒲生氏郷に代わり重臣蒲生郷安が米沢城主となった。
慶長三年(1598年)氏郷の子秀行が会津若松から宇都宮城へ移封となり、越後より上杉景勝が120万石で会津に入封、米沢城主には重臣直江兼続を置いた。慶長五年(1600年)秀吉への恩顧から徳川家康に「直江状」を送り敵対し関ヶ原の戦いには参戦しなかったが、西軍とみなされ、米沢に30万石まで減封された。景勝は本丸に三階櫓を二棟造った。
寛文四年(1664年)三代綱勝が嗣子を定めず急死したため、綱憲が末期養子に認められ藩は存続したが15万石に減らされ、藩の財政は逼迫することとなった。九代治憲(上杉鷹山)の藩政改革で財政の再建を果たした。
慶応四年(1868年)の戊辰戦争では、藩が改易される窮地を救った会津藩主・保科正之への恩義もあることから奥羽越列藩同盟に加わった。
明治四年(1871年)廃藩置県により米沢県が置かれた。明治五年(1872年)最後の藩主・斉憲は、城内にあった謙信の霊屋(御堂)を鷹山とともに合祀し上杉神社とした。
明治六年(1873)には城の建物が全て破却された。二の丸にあった藩の政庁はそのまま郡役所、町役場(後に市役所)として利用した。
明治七年(1874年)には城跡は松が岬公園として市民に一般開放された。