小沢城 (おざわじょう) (市の史跡)
所在地 群馬県沼田市町田町2022 2019.2.16
小沢城 (おざわじょう) (市の史跡)
所在地 群馬県沼田市町田町2022 2019.2.16
登城ルート(緑線は車道)
法城院
説明板・城跡標柱
沼田大明神
沼田平八郎景義の墓
北側虎口・土橋
北側空堀
小沢城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 小沢川に突き出た台地に築かれた崖端城となっている。法城院及び沼田大明神が建てられ、畑や墓地となっている。
北側に大手の土橋・虎口を開き、左右に折れのある空堀、土塁がよく残っている。
【案内】 県道265線「善桂寺町」交差点より約450m市道を南に行った所に法城院入口があり[マップコード183 590 249*20]、そこを斜めに登った駐車場が利用できる。
東側道路から直接空堀に入ることも出来る。
平成七年(1995年)3月24日、沼田市の史跡に指定された。
【歴史】 応永十二年(1405年)三浦系の沼田景朝が小沢川の崖端に築き、荘田城(井土上町)から移った。
その後、その後、景康・景世・11代泰輝と代を重ね、 永正十六年(1519年)に幕岩城に移るまで、沼田氏4代114年間の居城であった。
沼田平八郎景義は沼田城主12代顕泰の後室の子で沼田氏最後の主将であった。兄朝憲は13代城主となり、景義は父顕泰、母ゆのみと川場村天神城に移る。
永禄十二年(1569年)正月、ゆのみの兄金子美濃守らの策を用いた顕泰は朝憲を天神城に招き謀殺した。このため、沼田城兵に攻められ、天神城を焼き尾瀬を越え会津城主葦名氏のもとへ逃れた。ゆのみは凍死し、顕泰は会津で客死した(73歳位)。
景義は勢多郡女渕城に移り、沼田城は上杉謙信没後、北条氏邦が奪い、更に真田昌幸の所領となった。
景義は天正九年(1581年)三月挙兵し、城奪還直前の同月十四日昌幸の謀計に乗って伯父金子に欺かれ、沼田城内で金子らに殺害された。
昌幸は甲府より来て首実験した後、沼田氏旧臣の離反を恐れ、景義の遺骸をここに葬り、沼田大明神として祀った。また法喜院(のち法城院)を建て、霊を弔った。『沼田大明神説明板』より。