八丁目城 (はっちょうめじょう)
最寄地 福島県福島市松川町稲荷17−1 2014.4.16 2018.7.4
八丁目城 (はっちょうめじょう)
最寄地 福島県福島市松川町稲荷17−1 2014.4.16 2018.7.4
登城ルート
体育館入口・城跡標柱
二の郭南の中段
二の郭跡・忠魂碑
本丸二の丸間の空堀
本丸下段・愛宕神社
本丸
本陣跡(現スタンド)
八丁目城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 「市立まつかわ西幼稚園」(表記番地)に向かう県道52号線北の駐車場が利用できる[マップコード129 850 580*68]。
旧松川小学校跡地に東北大震災や放射能事故に伴う飯舘村等の避難者の仮設住宅が建てられている。
東の県道52号線(奥州街道)沿いに松川の宿場町があり参勤交代時の大名本陣が現在のガソリンスタンドに在ったと云われる。スタンドから西に直角に曲がった県道52号線と仮設住宅の間に碑、由来看板がある。
「市立まつかわ西幼稚園」と体育間の間より登ると曲輪が二つある。鳥居のある坂を登り詰めると「忠魂碑」の建つ二の郭がある。
二の郭と空堀を隔てて北に本丸があり毘沙門天の祠がある。周囲に帯曲輪があり、南東に愛宕神社が建てられている。
4年後訪れた時には、仮設住宅も空家が目立ち、引っ越されたのだと思われる。
【歴史】 八丁目城の築城時期及び築城者は定かでないが、十六世紀伊達稙宗が桑折西山城の支城として築かれ、天文の乱の頃は堀越興行(能登守)の居城であった。
天文十二年(1543年)八月から一年半ほど稙宗が在城した。天文の乱に勝利した晴宗(奥州探題・米沢城主)は清野備前守・遠江守父子を城主に据えた。
遠江守が晴宗の子・輝宗に切腹させられた後、復帰した堀越能登守は、元亀元年(1570年)二本松城主・二本松義国に寝返ったため、八丁目城は二本松領となった。
しかし、天正二年(1574年)、大森城主・伊達実元が八丁目城を奪い返し、再び伊達領となった。以後、八丁目城は南の二本松氏に対する押さえの城として伊達氏にとって重要な拠点となった。
天正十二年(1584年)頃に実元が成実(しげざね)に家督を譲って八丁目城へ隠居し、のちに同城で没した。
天正十三(1585年)年伊達輝宗(政宗の父)が二本松の畠山義継に殺されるや、政宗は八丁目東西館を本拠に戦い、伊達軍の勝利となり畠山家は滅亡した。
成実は伊達政宗の片腕として活躍し、天正十四年(1586年)に成実が二本松城に移り、片倉景綱(小十郎)が大森城主となった後も八丁目城は成実の所領となった。
天正十八年(1590年)の豊臣秀吉の奥州仕置の際、浅野長政が大崎氏領へ向かう途中に八丁目城に滞留している。八丁目城はこの奥州仕置の際に破却され廃城になったと思われる。
【宿場】 築城に際し南約1㎞の字宿地から移されて成立した八丁目の城下町(本町・中町・天明根町・向町)は廃城後の江戸時代には宿場町として奥州街道屈指の賑いをみせた。