小坂城 (おさかじょう)
最寄地 茨城県牛久市小坂町1985 2016.2.11
小坂城 (おさかじょう)
最寄地 茨城県牛久市小坂町1985 2016.2.11
入口にある城跡碑・説明板
縄張り図
空堀
2郭・空堀
1郭・土塁
櫓台
1郭南東空堀
小坂城 1郭跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道408号線の表記番地西100mに、小坂団地進入道路があり、左折してすぐに駐車場が用意されている[マップコード65 459 571*28] 。反対側に「小坂城跡」の石碑、説明板が建てられている。
階段を登ると3郭、2郭が並び、その南に方形の1郭、逆L字形の2郭が配置されている。それぞれの郭は土塁が巡らされ、空堀で区画されている。1郭の南は国道工事で削られているが、保存状態は良好である。
1郭からは小野川や南東に泉城跡の山が望める。
【歴史】 小坂城の城主は、『小田家風土記』に「岡見備中守」の名が記されていることから、現牛久市域を領有していた岡見氏の一族と考えられる。
岡見氏は、小田氏から分かれ、室町時代の史料に登場する河内郡岡見郷の住人「南殿(みなみどの)三郎朝義」は岡見氏の先祖と考えられている。
16世紀初めの家督争いを克服した小田氏は領土を拡大していった。そのため江戸崎城を本拠とする土岐氏と対立した。
『新編常陸国誌』には、小野川対岸にある泉城(現龍ヶ崎市)の城主東条重定が、小田氏治と小坂の地で戦い、戦死した事が記されており、小坂城の岡見氏もこの戦いに加わっていたものと思われる。
16世紀中ごろ、小田原の北条氏が本格的に関東に進出し、上杉謙信は北条氏討伐の為関東に出兵した。この地域の領主たちは両者の狭間で、難かしい対応を迫られた。
永禄十二年(1569年)佐竹氏が小田城を攻略し、小田氏が没落すると、現牛久市域は北条氏と佐竹氏の攻防の最前線となった。このころ岡見氏は小田氏を離れ、北条氏の配下となった。
やがて戦国期の岡見氏の本拠である牛久城には、北条氏方の在番衆が派遣され、境目の領主である岡見氏の監視を兼ね、牛久城の守備が強化された。『牛久市教育委員会・茨城大学中世史研究会』説明板より。