芹沢城 (せりざわじょう)
最寄地 茨城県行方市芹沢462 2016.2.11
芹沢城 (せりざわじょう)
最寄地 茨城県行方市芹沢462 2016.2.11
芹沢鴨生家跡
南側郭・土塁
南側堀切
説明板・城址碑
説明板
主郭跡・神社北の土塁
芹沢城 主郭跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 県道116号線より東に300mほど行った表記番地の道路向かいに新撰組初代筆頭局長「芹沢鴨生家跡」がある。
その先を、道路より左に入って空堀跡をゆくと、土塁の残る郭が確認でき、法眼寺の方に向って堀切が伸びている(地図)。
戻って東に60mほど登城道を行くと、竹藪の脇に「芹沢城址」の石碑、説明板が建てられている[マップコード162 786 400*41](地図)。
中央を東西に結ぶ道路があり両側に広い畑となっている主郭がある。南の大宮神社から東側にかけて土塁が残っている。
【歴史】 常陸大掾氏一族である芹沢氏は、吉田氏系(水戸地方からの別れ)の玉造氏とは違う大掾本家の多気氏の末裔に当る。
南北朝時代に芹沢氏の祖となる平竜太が相模国高座郡に所領を持ち芹沢の地に館を構えた時、芹沢氏を名乗り、成人後は幹文と改め、良幹(よしもと)、高幹(たかもと)、望幹(もちもと)4代にわたって鎌倉御所に仕えた。
その後、芹沢良忠が常陸へ戻り館を構え、天文年間(1532~55年)秀幹(ひでもと)の代に芹沢城が築かれた。石碑文では初代城主「常陸大掾多気維幹十五代裔芹沢土佐守平俊幹」と記されている。秀幹のあとは定幹(さだもと)、国幹(くにもと)と続いた。
天正十九年(1591年)三月、佐竹氏による「南方三十三館の仕置」では、芹沢国幹は難を逃れたものの、後に出奔し、廃城となった。
又、芹沢家は医薬の術を持つ豪族として戦国武将にも知られていた。相模国在住の時から医術と関わりを持ち、4代当主範幹(のりもと)は京都に赴いたとき医術を学び、今に伝えられる白薬、万病円など疵の治療薬を提供していた。この医術にまつわる民話が「河童の恩返し」の伝説となって今に伝えられている。『玉造町説明板』より。