岩槻城 (いわつきじょう) (岩付城・白鶴城・浮城) (県の史跡)
所在地 埼玉県さいたま市岩槻区太田3 2013.9.21 2020.6.15
岩槻城 (いわつきじょう) (岩付城・白鶴城・浮城) (県の史跡)
所在地 埼玉県さいたま市岩槻区太田3 2013.9.21 2020.6.15
登城ルート(緑線は車道)
裏門
城門(黒門)
八ッ橋・沼
新曲輪の碑
新曲輪南東側の空堀
鍛冶曲輪南西側の空堀
鍛冶曲輪・土塁
鍛冶曲輪土塁・白鶴城址碑
民家の本丸跡の看板
【感想】 元荒川右岸の台地に築かれており、沼など湿地帯を天然の堀として利用した城であったが、本丸や二の丸、三の丸は市街地となり消滅している。
一方、沼を挟んで南東にあった新曲輪と鍛冶曲輪が岩槻城址公園として整備されている。
鍛冶曲輪に土塁が見られ、空堀が南側から、新曲輪の東側にかけて伸びており遊歩道となっている。また野球場の西から南に樹木は多いが、空堀が残っている。
【案内】 県道2号線の「城址公園入口」交差点より、南東に約500m行くと左側に駐車場が用意されている[マップコード3 700 705*55]。
駐車場の南に裏門及び岩槻城城門が移築されている。
「さいたま市民会館いわつき」や野球場、駐車場、「岩槻城址公民館」がある所が新曲輪で、南側の鍛冶曲輪を含めて岩槻公園となり、水堀であった池には朱塗りの橋が架けられている。北側の沼地跡は芝生公園となっている。
南の鍛冶曲輪土塁上に「白鶴城址碑」の城跡碑が建てられている(地図)。
三の丸は「岩槻本丸公民館」敷地と想定され、本丸は県道付近の住宅地で、 民家の塀に「岩槻城本丸跡」の看板が掲示されている(地図)。
大正十四年(1925年)3月31日、埼玉県の史跡に指定された。
【歴史】 室町時代、長禄元年(1457年)太田道灌、または父道真により築城されたという説と忍城主成田顕泰(あきやす)の父成田正等(しょうとう)築城という二説がある。
十六世紀前半には太田氏が城主であったが、永禄十年(1567年)三舟山合戦(富津市)で太田氏資が戦死すると、小田原の北条氏が直接支配することとなった。
天正十八年(1590年)秀吉の小田原攻めで、五月二十二日より2日間で落城した。
家康の関東入部で高力清長が城主となった。岩槻城は江戸の北の守りとして重要視され、幕府要職の譜代大名が代々城主となった。
青山氏・阿部氏・板倉氏・戸田氏・藤井松平氏・小笠原氏・永井氏・大岡氏と続いた。
明治維新で廃城となり建物は破却、移築され土地は払下げられた。