三戸城 (さんのへじょう) (留ヶ崎城・糠部城)
所在地 青森県三戸町梅内城ノ下34−29 2013.11.6
三戸城 (さんのへじょう) (留ヶ崎城・糠部城)
所在地 青森県三戸町梅内城ノ下34−29 2013.11.6
綱御門
模擬天守
亀池
鍛冶屋御門跡石垣
三戸城本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高80m】
【案内・感想】 県道134号線より左折し、登った標高130m比高約80mの城山にあり、本丸跡は駐車場兼広場となっている[マップコード209 752 428*28]。
「三戸城本丸跡」の石碑が建てられ、その西には「糠部神社」や昭和四十二年(1967年)建造の模擬天守がある。内部は歴史資料館(表記番地)となっている。
その南西約200mには平成元年(1989年)、「綱御門」が復元されている(地図)。本丸の東に鶴池、亀池のある庭園、下ったところに鍛冶屋御門跡の石垣が残っている。
【歴史】 天文八年(1539年)聖寿寺館の家臣による放火で焼失したことにより、この地に築城された。
晴政、晴継が相次いで没すると、天正十年(1582年)田子館主田子信直が三戸南部氏の家督を継ぎ、三戸城へ入城、信直の代となった。
天正十八年(1590年)小田原征伐で参陣した信直は、豊臣秀吉より五ヶ条の朱印状を受け所領安堵されたが、家中の城館の破却を命じられ、三戸の城下に移転させられた。
翌年九戸一揆を平定し、奥州仕置軍を率いた蒲生氏郷らにより、三戸城は石垣を持った城へ普請され、三層三階の御三階櫓が上げられた。
寛永十年(1634年)盛岡城が居城と定められて、三戸城には城代が置かれ、貞享年間(1684~88年)以降、三戸代官の支配となった。