大森城 (おおもりじょう) (臥牛城)
最寄地 福島県福島市大森(字)南内町31−1 2014.4.15
大森城 (おおもりじょう) (臥牛城)
最寄地 福島県福島市大森(字)南内町31−1 2014.4.15
登城ルート(緑線は車道)
空堀・橋
本丸・花見広場
本丸・城跡碑
北館跡
北端の模擬物見櫓
大森城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道148号線の信号交差点より「福島市立信夫中学校」(表記番地)の北の道を直進し、道なりに登り城跡南側の南館跡まで車で行ける[マップコード475 202 395*73]。日中は一方通行となっている。
大森城跡は比高約60mの独立丘陵にあり、「大森城山公園」となっている。空堀跡・太鼓橋を渡ると土塁の残る本丸(主郭)跡であり、本丸跡の「花見広場」は桜の名所で、満開の桜の花見客で賑わっていた。本丸北側に城跡碑、忠霊塔があり、放射能自動測定器は0.444マイクロシーベルトと高い値を表示している。
東に大森城山古墳があり、北の北館跡に炊事場・キャンプ場、北端に模擬物見櫓が復元されている。下山は西側の一方通行の道を通行する。
【歴史】 大森城がいつ頃から存在するのかはよく判っていない。ただ、城跡近辺には鎌倉時代から室町時代初期にかけての板碑が数多く残されており、この一帯が有力国人の拠点だったことは想像に難くない。
鎌倉から室町初期にかけてこの一帯を支配していたのは二階堂氏と言われている。史料から大森城の存在が明らかになるのは戦国時代からで、伊達稙宗の三男・伊達実元が城主となった。
天文十一年(1542年)に起きた伊達氏の内紛・天文の乱の際、実元は稙宗方につき、大森城は稙宗方の重要拠点の一つとなった。
しかし、天文十七年(1548年)に乱が終息し、稙宗の隠居と実元の兄・晴宗の家督相続が決まった。
兄が桑折西山城から出羽米沢城へ移った後、兄と和解した実元は大森城主にとどまり、信夫郡南部の支配権を与えられた。
その後、天正十二年(1584年)に実元は大森城を嫡男・成実へ譲り、自身は八丁目城(福島市松川町)に隠居した。
成実は伊達政宗の片腕として活躍し、天正十四年(1586年)に政宗が二本松城を落城させると、成実に二本松城を与え、大森城は片倉景綱に与えた。
この時期の大森城は、政宗による仙道地方(現在の福島県中通り)進出や相馬氏との戦いの際に中継拠点として用いられ、伊達氏の南奥制覇に非常に大きな役割を果たしている。
しかし、天正十九年(1591年)の豊臣秀吉による奥州仕置(再仕置)によって信夫郡が伊達氏から没収され蒲生氏郷に与えられると、大森城主となった氏郷の客将・木村吉清は、杉妻城を改修して、文禄元年(1591年) 福島城と名を変え居城を移し、大森城を廃した。現在の福島市が福島という名になったのはこのときである。
しかし、氏郷の死後に蒲生氏が宇都宮城へ移され、上杉景勝が会津領主となると、大森城は再び取り立てられ、慶長三年(1598年)上杉氏家臣の栗田国時が城主となった。
関ヶ原の戦いの直前に国時が徳川家康に通じたために殺害されると、慶長六年(1601年)芋川正親が城主となった。
それ以降、大森城は芋川氏に代々受け継がれたが、寛文四年(1644年)の上杉綱景急死・上杉綱憲相続に伴う一連の騒動によって上杉領が15万石に半減されるに及び、信夫郡は天領となり、大森城は廃城となった。