箕輪城 (みのわじょう) (国の史跡・日本100名城16)
最寄地 群馬県高崎市箕郷町東明屋570 2013.9.23 2021.1.28
箕輪城 (みのわじょう) (国の史跡・日本100名城16)
最寄地 群馬県高崎市箕郷町東明屋570 2013.9.23 2021.1.28
登城ルート
郭馬出・空堀・摸擬門
郭馬出・空堀・土橋
二の丸・想像図
本丸空堀
本丸跡
御前郭・碑・井戸
本丸蔵屋敷間の空堀・橋
箕輪城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【感想】 榛名山の南東麓の丘陵に築かれており、鷹留城の東約5.5kmに位置している。
以前は梅林だったか、今回訪れてみると土塁や空堀の樹木は綺麗に刈られ全体が見やすくなっており、本丸と蔵屋敷間の空堀に橋が架けられ、「郭馬出」には模擬門が建てられていた。
空堀を伝って一周でき、一所懸命に生きた武士や農民の姿を偲ぶことができた。
【案内】 県道26号線の西の市道の表記番地先に駐車場があり[マップコード94 549 236*48]、左折して行った搦手口を登ると、二の丸跡に駐車場が用意されている[マップコード94 549 081*87](地図)。
西側の大手虎韜門(ことうもん)口にも駐車場が用意されている[マップコード94 519 765*85](地図)。
二の丸の西に三の丸があり、空堀が北に伸び蔵屋敷と本丸の間に模擬橋が架けられている。二の丸の北に空堀を挟んで広い本丸がある。その北は空堀を挟んで御前曲輪で井戸、城跡碑及び「箕輪城将士慰霊碑」、由来文石碑が建てられている。
二の丸の南には土橋で結ばれた「郭馬出」、「木俣」と呼ばれる家臣屋敷があり、大空堀が残る。
昭和六十二年(1987年)12月17日、国の史跡に指定され、平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(16番)に選定された。
【歴史】 永正九年(1512年)長野尚業(ひさなり・業尚とも)の子・憲業(のりなり)が箕輪城を築き、鷹留城より移った。
戦国時代の上野国には関東管領山内上杉家が存在したが、永禄元年(1558年)上杉憲政が越後へ亡命した後はその重臣長野氏が残り、相模の北条氏、甲斐の武田氏、越後の上杉氏(上杉憲政の名跡を継いだ)が侵攻を繰り返す場であった。このような中、長野氏は上杉氏の後ろ盾を得ていた。
永禄四年(1561年)十一月、3代業正(業政)が没すると、嫡男業盛(なりもり・別名氏盛)が家督を継ぎ、業政の死は永らく秘匿された。しかし、業政の死を知った信玄は再び西上野への侵攻を開始し、近隣の城を落とし、また調略を仕掛け寝返らせていった。
永禄八年(1565年)頃には箕輪城は孤立していき、翌永禄九年(1566年)武田信玄は2万の大軍で箕輪城への総攻撃を仕掛け、頼みの上杉謙信の援軍を待たずして九月下旬には遂に落城し、業盛主従は自刃して果てた(享年二十三)。辞世「春風に梅も桜も散りはてて名のみぞ残る箕輪の山里」が石碑に残る。
こののち箕輪城は武田氏の上野の拠点とし、有力家臣である甘利昌忠、真田幸隆(幸綱)、浅蜊信種が城代となった。
元亀元年(1570年)頃には内藤昌豐(昌秀)が城代となった。天正三年(1575年)長篠の戦いで内藤昌豊が討ち死にすると、その子内藤昌月(まさあき)が城代に任じられた。
天正十年(1582年)二月、天目山の戦いで武田氏は滅亡したが、この機に乗じ北条氏政の弟・氏邦が侵攻した。しかし、同年、氏邦は織田信長の家臣・滝川一益により追われ、さらに、この年の六月、信長が本能寺の変で倒れると、北条氏直・氏邦の大軍が上野国に侵攻、神流川の戦いで一益を破り、氏邦が再度箕輪城に入城、内藤昌月もこれに従った。
天正十八年(1590年) 豊臣秀吉の小田原征伐の際に箕輪城は前田利家・上杉景勝連合軍の攻撃により開城した。
この年、徳川家康が関東に入封し、箕輪城は12万石をもって井伊直政に与えられた。
直政は箕輪城を近代城郭に改造したが、慶長三年(1598年)高崎城に移封され、それに伴って箕輪城は廃城となり、80余年の歴史に終止符を打った。