鉢形城 (はちがたじょう) (国の史跡・日本100名城18)
所在地 埼玉県大里郡寄居町鉢形2496‐2 2013.7.7 2013.8.28 2014.3.26 2017.11.18
鉢形城 (はちがたじょう) (国の史跡・日本100名城18)
所在地 埼玉県大里郡寄居町鉢形2496‐2 2013.7.7 2013.8.28 2014.3.26 2017.11.18
登城ルート(赤は本丸/緑は二ノ曲輪/青は三の曲輪)
本丸切岸と空堀・本丸下曲輪
本丸東側石垣
本丸御殿曲輪・土塁
本丸址碑
三の曲輪
二ノ曲輪・空堀・三の曲輪
二の曲輪復元門・石積土塁
鉢形城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 深沢川を挟んで南の外曲輪には「鉢形城歴史館」(表記番地)があり、駐車場が用意されている[マップコード150 683 268*86]。
荒川と深沢川に挟まれた断崖の上に笹曲輪、本丸曲輪、南西方向に二の曲輪、三の曲輪(地図)、大手と配置されている。
大手北にJR八高線が通っており、大手虎口や三の曲輪、逸見曲輪、二の曲輪を区画するように空堀や土塁が良く復元保存されている。
本丸曲輪は車道を挟んで西に石碑「鉢形城本丸址」が立つ御殿曲輪、南東下段に御殿下曲輪がある。
昭和七年(1932年)4月19日、国の史跡に指定された。
【歴史】 文明五年(1473年)六月、山内上杉氏の家宰であり、同家の実権をふるった長尾景信が古河公方・足利成氏を攻める途中、戦闘は優位に進めたものの景信自身は五十子(いかご)の戦いに於いて戦死した。
長尾家の家督を継いだのは景春の弟長尾忠景であり、山内上杉家の当主上杉顕定(あきさだ)も景春を登用せず忠景を家宰とした。
景信の嫡男・長尾景春はこれに怒り、文明八年(1476年)武蔵国鉢形の地に城を築城し、足利成氏側に立って顕定に復讐を繰り返すこととなった。これが鉢形城の始まりである。
文明十年(1478年) 扇谷上杉氏の家宰太田道灌が鉢形城を攻め、景春は塩沢城へ逃れ、上杉顕定が入城した。
明応三年(1494年)養子の上杉顕実(実父は古河公方足利成氏)が上杉顕定の後を継いだ。
永正九年(1512年) 上杉顕実は同じ顕定の養子であった上杉憲房の軍に包囲されて鉢形城は落城、顕実は命を助けられたものの山内上杉家当主の座を失った。
永正十二年(1515年) 憲房は山内上杉氏の家督を継ぎ、同年に顕実が死ぬと関東管領職をも継いだ。しかし、家臣として仕えていた長尾景春が離反し、扇谷上杉家の上杉朝興、相模の北条二代氏綱、甲斐の武田信虎などとの長年にわたる抗争のなか、大永五年(1525年)三月に病没した。その後を養子の上杉憲寛が継いだが、のちに争いの末、実子の上杉憲政が継いだ。
天文十五年(1546年) 北条氏三代氏康が上杉朝定・上杉憲政の拠る川越城を攻略する河越夜戦が起き、それに勝利して北条氏が武蔵国における覇権を確立した。
永禄七年(1564年)この地の豪族藤田康邦に入婿した後北条氏康の四男氏邦(次男氏照は滝山城主・八王子城主)が、永禄十一年(1568年)十月から翌年三月ころに、天神山城より入城し整備拡充した。永禄十二年(1569年)には武田信玄による攻撃を受け、天正二年(1574年)には、上杉謙信が城下に火を放っている。
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に際し、後北条氏の重要な支城として、前田利家、上杉景勝等の連合軍3万5千の兵に攻められ1ヶ月の激しい攻防戦の末、城兵の助命を嘆願して北条氏邦は開城した。戦後、利家の助命嘆願で剃髪することで一命を許され、能登津向(今の七尾)に知行千石を得、慶長二年(1597年)、加賀金沢にて57歳で病没した。
同年八月の家康の関東入部に伴い、家康配下の成瀬正一・日下部定好が代官としてこの地を統治した。