宮崎城 (みやざきじょう)
所在地 群馬県富岡市宮崎20 2020.8.26
宮崎城 (みやざきじょう)
所在地 群馬県富岡市宮崎20 2020.8.26
西中学校・説明板
略図
腰曲輪・グランド
櫓台
西側堀切
宮崎城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 「西中学校」敷地となり、本丸は西側にあり、東側の2郭との間に空堀があったが、埋められ遺構が消滅している。
北側道路脇に櫓台があり、神成山に向かう校庭の外れに堀切が2条残っている。
【案内】 富岡市立「西中学校」(表記番地)校門南に説明板が建てられている[マップコード247 581 433*04]。
校門横に「神成山ハイキングコース入口」があり、神成城へ行くことができる。
東側の一段下がったグランドが腰曲輪跡である。また北側道路横に櫓台がある(地図)。
【歴史】 小幡氏の国峰城の西方を固める支城として築かれた。
その後武田信玄が西上野に侵攻すると、武田氏に従い、天正十年(1582年)武田氏の滅亡後、織田氏や北条氏に従った。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際には、北条方につき国峰城と共に落城した。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、徳川家康の家臣奥平信昌が新城城より2万石で宮崎城に入ったが、翌年奥平氏は美濃に移り、宮崎城は廃城となった。