小軽米城 (こかるまいじょう)
最寄地 岩手県九戸郡軽米町小軽米第10地割4 2014.8.14
小軽米城 (こかるまいじょう)
最寄地 岩手県九戸郡軽米町小軽米第10地割4 2014.8.14
登城ルート(緑線は車道/赤丸は八幡社下の平坦地/青丸は公園)
小軽米中学校からの遠景
八幡社鳥居
八幡社
八幡社下の平坦地
主郭の公園 ・四阿
小軽米城 主郭跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 小軽米中学校(表記番地)の南東約150mの三叉路を東に約200m行った林道を北に登ってゆくと、八幡社があり、西(左)に南の平坦地がある[マップコード750 154 578*41](地図)。
南の郭は傾斜した平坦地で、東側の高い所に八幡社が祀られている。神社背後は草木が茂って、空堀など余りはっきり見ることはできなかった。
更に北に400mほど行くと主郭があり、四阿の建つ公園となっている。
【歴史】 築城時期は不明である。城主は九戸氏の庶流小軽米氏で、天正十九年(1591年)九戸政実の乱に際し、雪谷川や瀬月内川流域の諸将士の多くは九戸氏方に加わったが、小軽米氏は南部信直方となり、九戸方の本拠を背後から牽制するうえで、小軽米氏と当城は重要な役割を担うこととなった。
しかし、当地は広大な九戸領の一所領に過ぎず、小軽米氏単騎での行動は実質不可能と思われる。加えて「九戸の乱」の戦の折は「九戸方の諸将に囲まれて身動き出来ないままに終わる・・・」とも云われている。
小軽米氏が小軽米村一円を与えられたのは、九戸政実の乱後で、小軽米氏の故地であった為といわれる(「参考諸家系図」)。
しかし、小軽米氏は「九戸の乱」以前より、九戸政実の家臣団「九戸党」の一員として語られており「九戸の乱」以後の南部家側の文献は信憑性に欠ける。
さらに小軽米氏は九戸の乱後、野辺地城城代となり、小軽米左衛門の息子の代の名が最後に残っている。
天正二十年(1592年)「諸城破却書上」には「古軽米 山城 破 小軽米左衛門佐 持分」とあり、破却された。