大窪城 (おおくぼじょう) (大久保城) (市の史跡)
所在地 茨城県日立市大久保町4丁目15−1 2020.4.25
大窪城 (おおくぼじょう) (大久保城) (市の史跡)
所在地 茨城県日立市大久保町4丁目15−1 2020.4.25
暇修館
城跡碑・説明板
南側の土塁
西側土塁
南西側空堀
大窪城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 暇修館の建っている所が本丸で、西から南にかけて土塁、南西側に深い空堀が残っている。
南側の細い道路を歩くと、大窪姓の民家が多く見られ、2郭の大手口付近の空堀が残っている(地図)。
【案内】 日立市大久保町4丁目の暇修館(表記番地)の一帯が城跡で、東側の入口に「大窪城跡・暇修館跡入口」の石碑が建てられている[マップコード47 779 895*81]。西に100m程行くと暇修館があり、数台分の駐車場が用意されている。
暇修館のある所と西側の天神山城、その南の愛宕山城を合わせて大久保城とも呼ばれている。
昭和四十七年(1972年)7月27日、日立市の史跡に指定された。
【歴史】 治承元年(1177年)平氏一族の大掾宗幹(だいじょうむねもと)が大窪郷の愛宕山に築いたのが始まりとされる。
14世紀、奥州の石川冠者有光の14世詮光(あきみつ)の3男茂光が佐竹氏に仕えて初代大窪城主となった。以後、8代200年に亘って大窪郷を支配した。
16世紀頃、城は愛宕山・天神山に加え現在の地へも築かれ、地域支配と防衛の拠点となった。
暇修館(かしゅうかん)は水戸藩の郷校として天保十年(1840年)に造られた。水戸藩に設立された15の郷校のうち、5番目に古いもので初代館主大窪光茂の元、身分の隔てもなく医学・剣術・弓術・射撃訓練などが行われた。現在の建物は昭和48年に復元されたものである。