久慈城 (くじじょう) (新町館・八日館) (市の史跡)
最寄地 岩手県久慈市大川目町第22地割62 2014.8.15
久慈城 (くじじょう) (新町館・八日館) (市の史跡)
最寄地 岩手県久慈市大川目町第22地割62 2014.8.15
登城ルート
登り口・城址標柱・案内板
馬場跡
帯郭跡
主郭跡
稲荷社
北側堀切
久慈城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【案内・感想】 国道281号線より「大川目小学校」東の道路を北に約1kmの「慈光寺」(表記番地)手前に「気比神社」がある[マップコード296 070 590*60]。
その東に登り口があり、「久慈城跡」の入口標柱と配置図看板が建てられている(地図)。登って行くとすぐ「馬場跡」があり、天王社の朱鳥居があり、祠が祀られている。
帯郭を経て虎口のある主郭跡がある。北に空堀を経て稲荷社の祠のある郭がある。その北は堀切であり、西に慈光寺がある。
昭和四十八年(1973年)10月8日 久慈市の史跡に指定された。
【歴史】 久慈氏の居城で、久慈修理助治政の養子、12代と伝えられる備前守信実の頃からが大川目八日館に居住したのが始まりと伝わる。
築城時期は不明だが、信実が当地に入ったのは文明年間(1469~87年)の頃である、と云われている(「摂待久慈家譜」)。
久慈氏宗家である、久慈備前守直治は九戸信仲の三男中務政則を娘婿としていた為、天正十九年(1591年)九月、九戸政実の乱において九戸政実に与した。
九戸城に籠城したが降伏し開城に伴い、主だった首謀者達と共に栗原郡三迫岩ヶ崎(現 宮城県栗原市)に送られ処刑され、久慈氏の嫡流が滅亡した。
没後、久慈城は南部信直の直轄下におかれ、代官は久慈修理治興であった。
天正二十年(1592年)「諸城破却書上」には「糠部郡之内 久慈 山城 破 信直抱 代官 久慈修理」とあり、破却された。
『二戸市史』第一巻には、九戸の乱の籠城者に「久慈備前守政則、久慈中務、久慈主水」の名が記されている。