轟城 (とどろくじょう) (市の史跡)
最寄地 栃木県日光市町谷1991 2015.2.7
轟城 (とどろくじょう) (市の史跡)
最寄地 栃木県日光市町谷1991 2015.2.7
国道横・説明板
説明板
入口・標識
土橋・虎口土塁
空堀
主郭・土塁
主郭・井戸跡
轟城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 国道461号線(日光北街道)「轟」交差点より東に1㎞行くと「轟城跡」の説明板が建てられている(地図)。右折して約200m行くと、民家の西に低い入口標識が立てられている[マップコード132 885 844*50]。
北東に行くと間もなく、空堀、土橋、虎口がある。約80mの正方形の主郭周囲に土塁がよく残り、南、西の堀に、東側の川から引き込んだ水が流れている。北側は急崖となり、中央に井戸跡がある。
昭和四十一年(1966年)12月、日光市の史跡に指定された。
【歴史】 鎌倉時代、鎌倉幕府の有力御家人畠山重忠の末子・重慶の築城と伝えられている。
『吾妻鏡』巻二〇に以下のように記されている。「建保元年(1213年)畠山重慶が日光山麓に謀反を企てたと日光山別弁覚が鎌倉幕府に通報し、将軍実朝は、長沼五郎宗政に逮捕を命じたが、宗政は生け捕りにせず首を持参した為、実朝は不快に嘆息した。」 『日光市教育委員会説明板』より。