荒砥城 (あらとじょう) (八乙女城)
所在地 山形県西置賜郡白鷹町荒砥甲1099‐2 2015.6.11
荒砥城 (あらとじょう) (八乙女城)
所在地 山形県西置賜郡白鷹町荒砥甲1099‐2 2015.6.11
登城ルート
公民館南側の堀跡
公民館・奥が主郭
稲荷神社入口
稲荷神社・説明板
公園・東屋
八幡神社
荒砥城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 荒砥地区公民館(表記番地)及び長井・西置賜地域シルバー人材センターが荒砥御役屋跡に建てられ、二の郭跡と思われる[マップコード407 042 817*70]。
南側に堀跡が残っている。公民館敷地北の山が荒砥城主郭となっている。
主郭には稲荷神社が建てられ、その横に簡単な説明板があり、南側に低い土塁が残る。北の一段下に八乙女八幡神社が建てられ、参道石段横に井戸、城址碑がある(地図)。
【歴史】 八幡神社は、寛治元年(1087年)に源義家が勧請し、その後石灘監物が奉祀したものと伝えられている。 永長年間(1096~97年)以降、藤原清衡の家臣荒川次郎清泰が八乙女ヶ丘に築城し、八幡神社を建立した。
南北朝時代の元中年間(1384~92年)に馬場将監が堀を廻らし、城郭として整備した。大江氏、伊達氏の支配となった。
天正十九年(1591年)に伊達政宗が移封になると、蒲生氏郷の家臣水野三左衛門が在城、慶長三年(1598年)上杉氏領となり、米沢城主に直江山城守兼続がなり、最上との国境にある重要な荒砥城には、直臣泉沢河内守久秀が配された。
共に、慶長五年(1600年)の最上陣の折には八ッ沼城(朝日町)を攻め、中津川彦六・志田修理之進らが荒砥城代となった。 江戸時代には荒砥御役屋が置かれた。