野田城 (のだじょう)
最寄地 岩手県九戸郡野田村野田第26地割27 2017.10.26
野田城 (のだじょう)
最寄地 岩手県九戸郡野田村野田第26地割27 2017.10.26
東側の橋
遊歩道登り口(放置状態)
東端の平坦地
空堀 ?
西側の住宅
野田城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高30m】
【感想】 北側を宇部川、東側をその支流が流れている。比高20mほどの山頂にあり、西側は削平され高台住宅となっている。遺構はほとんど見られない。
海蔵院西側の台地が城跡と云われるが、明瞭な遺構は見られないようで、位置は確定していない様である。
【案内】 海蔵院(表記番地)南の道を西に行くと、宇部川の支流に架かる橋に出る[マップコード610 713 122*27]。
昭和60年の自然遊歩道看板には西側の久慈工業高校まで緑地となっていた。現在は津波対策として、元あった山の西側は削られ高台住宅地となっている。
【歴史】 三戸南部十一代伊豫守信長の子信継が一戸実朝の跡を継ぎ、康暦年間(1379~81年)に九戸郡野田村に移り住んだ。
後に、野田氏を名乗り野田村三日市場に古館(野田古館・現野田小学校)を築いて居館とし、戦国時代に久慈氏と並ぶ勢力を持つ豪族となった。
天正十九年(1591年)の九戸政実の乱の際には、野田正義・政親(直親)父子は南部信直方に味方し九戸氏や久慈氏とは敵対関係にあった。
天正二十年(1592年)の「諸城破却書上」には「野田山城 破 一戸掃部助持分」とあり、一戸掃部助とは野田政親の事である。
破却後、古館を破却し宇部館へ移ったとする説や、城内(現海蔵院・愛宕神社)の西側に新館(野田城)を築いたとする説などがある。
野田氏は南部氏が盛岡城を築いたのちは、その城下に移っており、後に盛岡藩の重臣として活躍した。『史跡宇部館跡』説明板より。