小国城 (おぐにじょう)
最寄地 山形県最上郡最上町本城68 2015.6.12
小国城 (おぐにじょう)
最寄地 山形県最上郡最上町本城68 2015.6.12
登城ルート
登り口・説明板
不動明王
主郭虎口
主郭南空堀
主郭
主郭・空堀の土橋
御前清水
小国城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高90m】
【案内・感想】 十日町公民館(表記番地)に駐車可、その先に登り口がある(地図)。登って行くと山神様、不動明王があり、さらに登ると帯郭が段々にあり空堀、虎口を経て広い主郭がある。
標高約280m比高約70mの平坦になった尾根の主郭には「小国城本丸跡地」の標柱が建てられている。西側に最上町の町並が一望できる。
虎口より東に下って行くと御前清水(ごぜんすず)があり、視界が開け、大手門跡を通って、民家、本城集会所(最上町本城365-15)に至る。
【歴史】 戦国時代に現在の最上町域(小国郷)を支配した細川直元が「岩部ノ館」を築いたとされ、これが小国城の起源と言われる。弟の細川帯刀直重は水手ノ館(志茂)に拠った。
細川直元は、天童城主天童頼澄と同盟して、最上義光(よしあき)に敵対していたが、義光が天童氏を滅ぼすと、天正八年(1580年)に小国郷にも攻め込んできた。
山刀伐(なたぎり)峠を越えて攻め込んだ最上軍に対し、赤倉温泉付近にある平原、万騎ヶ原で迎え撃つが、あえなく敗退、直元は討ち死にして細川氏は滅亡、小国郷は最上氏の領地となった。
義光は、万騎ヶ原の戦いで戦功があった家臣の蔵増光忠(くらぞう あきただ、蔵増安房守)に小国郷8000石を与えた。蔵増光忠の嫡子光基は、家督を受け継ぐと地名を取って改姓し小国光基(おぐに あきもと)と改名し、岩部の館を改修して小国城主となった。
その後、小国氏の居城として使われていたが、主家・最上氏が家督相続にまつわるお家騒動(最上騒動)で元和八年(1622年)に改易されると、小国氏も佐賀藩鍋島家預かりになって小国郷を去り、小国城は廃城となった。
その後、小国郷は新庄戸沢氏の領地となり、幕末まで続いた。