長倉城 (ながくらじょう)
最寄地 茨城県常陸大宮市長倉1533 2019.6.12
長倉城 (ながくらじょう)
最寄地 茨城県常陸大宮市長倉1533 2019.6.12
登城ルート
国道横の標識
墓地入口・遠景
主郭切岸
主郭東端
北側の帯郭
長倉城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【感想】 野口城の西北西約6kmに位置する那珂川左岸の標高95mの山頂に築かれている。
主郭は東西に細長く面積も広い。切岸と竪堀で防御された主郭の北側に帯郭が見られる。
写真で撮りやすい所を撮影したが、全体的に笹藪がひどく、移動に苦労し見落としも多くあると思われる。
【案内】 国道123号線「柏原」交差点の西手前に「長倉城跡入口」の標識が建てられている。そこから北に行った住宅地の北側にある墓地の裏側から登る(地図)。
墓地裏の遊歩道を西に50m程行き、右に大きく折り返す坂道があり、そこを登ると広大な主郭下に着く。切岸が東西に伸び、坂道を登ると主郭に着くが、笹の藪がひどく全体を見渡すことはできなかった。
【歴史】 鎌倉時代末期、佐竹氏7代行義の次男義綱が長倉城を築城し、長倉氏を名乗った。
応永十四年(1407年)、佐竹11代義盛が世継ぎを残さず病没した為、上杉義憲(義人)を娘婿として迎えることに山入氏等佐竹庶流が反発した。
永享七年(1435年)長倉義景はこの城で反旗を翻した。これに対して鎌倉公方足利持氏が大軍を派遣し義景を降伏させた。
永正三年(1506)までには反逆した佐竹山入家一族は滅ぼされ、山入氏に与した長倉義久も佐竹義舜(よしきよ)に攻撃され降伏した。
その後、長倉氏は佐竹氏に従ったが、幾度となく反抗し、慶長七年(1602年)佐竹義宣の秋田移封にも同行せず、この地で帰農した。