石神城 (いしがみじょう)
最寄地 茨城県東海村石神内宿1407 2015.2.14
石神城 (いしがみじょう)
最寄地 茨城県東海村石神内宿1407 2015.2.14
3郭北土橋
3郭西土塁
3郭・説明板
2郭西空堀
2郭土塁
1郭西空堀
1郭・土塁
石神城 1郭跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 県道358号線「内宿十字路」交差点より北に360mほど行き、信号の手前を右折、細い道を約300m行った住宅裏に「石神城址公園」駐車場[マップコード47 534 435*46](地図)が用意されている。
東に、空堀で区画された3つの郭から成る城址公園がある。それぞれの郭は西に土塁がよく残っている。
【構造】 石神城は東約1㎞に久慈川を望む本郭(1郭<遠見城>、2郭<御城>、3郭)を中心に、その北西に北郭(領主屋敷)を置き、その西に城下町である惣構えを持っており、その中は道路に沿って上宿・中宿・下宿と区画され、観音寺(城主の祈願所)が置かれ、西表が大手口となっていた。
また、南の谷地の外側には長松院(城主の菩提寺)を置き、外郭としていた。
【歴史】 築城時期、築城者は定かでない。永享四年(1432年)石神城合戦の折り、小野崎越前守三郎が城方を攻めて、鎌倉公方足利持氏より感状を与えられた。文正二年(1467年)ごろには小野崎越前守が石神城の城主となっていた。
天文四年(1535年)には石神小野崎道長による「石神兵乱」が起き、佐竹義篤は同族の額田小野崎篤道にこれを鎮圧させた。
しかし、天文十六年(1547年)には両者は所領の境をめぐって再び争い、城は落ち道長は城を退去した。
その後、石神小野崎氏は佐竹氏への戦功により帰城が認められ、永禄元年から三年にかけて石神外宿(としゅく)の石神城鎮守住吉神社を再建し、戦死した一族の為、願泉寺など三か寺の寺を建立した。
慶長七年(1602年)佐竹氏が秋田に移封されると、石神小野崎通広も秋田に移り、石神城は廃城となった。『東海村説明板』より。
系譜(『新編常陸国誌』より)
(道胤長男)道春―道郷―道綱―憲通―朝通―親通―通載―政通
秀郷・・道盛・・道胤―(道胤次男)通房―通重―通茂―通綱―通老―道長―通実―常通
(通老次男)通俊 (道長次男)通信―通広
(道長三男)通久
(道胤三男)通業―泰通―通重=通栄―就通―篤通―種通
(篤通次男)照通