二本松城 (にほんまつじょう) (霞ヶ城・白旗城) (国の史跡)(日本さくら名所100選)
所在地 福島県二本松市郭内4丁目 2011.7.10 2012.4.25
二本松城 (にほんまつじょう) (霞ヶ城・白旗城) (国の史跡)(日本さくら名所100選)
所在地 福島県二本松市郭内4丁目 2011.7.10 2012.4.25
二本松少年隊像
復元箕輪門
曲輪跡
日影の井戸
柳生の滝
天守台
二本松城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★ 比高80m】
【案内・感想】 「霞ヶ城公園」として日本さくら名所100選に選定されている[マップコード129 637 277*58]。
戊辰戦争の際の、二本松少年隊群像及び縫い物をして送り出す母の像が、入口近くにあるが壮絶な悲惨を感じさせる。
その北には復元された箕輪門・附櫓(昭和五十七年復元)がある。その北に曲輪跡(地図)があり、相生の滝や柳生の滝を見て登っていくと、上段の曲輪跡(地図)がある。途中に智恵子抄詩碑、土井晩翠歌碑「花ふぶき霞が城のしろあとに仰ぐあたたら峯の白雪」などがあり、日影の井戸を見て、やがて頂上の本丸に至る。
標高334.2m比高約80mの山頂に復元された本丸石垣、搦手門跡、天守台石垣(平成五~七年復元)がある。安達太良山、二本松市街の眺望がすばらしい。平成十九年(2007年)7月26日、国の史跡に指定された。
【歴史】 暦応三年(1340年)室町幕府より奥州探題に任ぜられた畠山高國が塩沢・田地ヶ岡館に最初に居を構え、地名を二本松と改称し、畠山氏七代当主・二本松満泰が応永二十一年(1414年)この地に二本松城を築城した。
戦国時代になると伊達政宗の攻撃をうけて、天正十三年(1585年)十月、15代当主二本松義継は政宗の父輝宗に降伏を申し出、輝宗のもとに出向いた義継は輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとしたが、これを聞きつけた政宗に輝宗もろとも射殺された(粟巣の変)。政宗はすぐ二本松城を攻撃、内通者も出て天正十四年(1586年)二本松城は開城、二本松氏は滅亡した。
政宗は片倉景綱、伊達成美を城代としたが、天正十九年(1591年)政宗が岩出山城へ転封されると、二本松城は会津若松城主・蒲生氏郷の支城になり、蒲生郷成・町野重乃が城代となった。
慶長三年(1598年)蒲生氏に代わって上杉景勝が会津に入ると下条忠親が城代となった。
慶長五年(1600年)家康に敵対した上杉氏は関ヶ原の戦いの後、米沢城に移され、会津には蒲生氏郷の子・秀行が復帰し梅原弥左衛門と門屋勘右衛門が二本松城の城代となった。
寛永四年(1627年)、秀行の嫡男忠郷が跡継ぎの無いまま死亡、次男の忠知が伊予松山城に転封となり、会津に加藤嘉明が入ると、二本松城には加藤氏与力の松下重綱が下野烏山城から5万石で入城した。
翌寛永五年(1628年)に松下重綱が没すると、その子・長綱は三春城に移され二本松城には加藤嘉明の次男・明利が入城した。
寛永二十年(1643年)加藤嘉明の子明成が改易されると、甥で明利の子・明勝も本家と同様に改易となった。代わって 小峰城より丹羽長秀の孫・光重が10万7千石で入城、天守台及び三重櫓が築かれた。以後明治維新まで丹羽氏の居城であった。
慶応四年(1868年)の戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦った。白河口へ出向いていた隙に新政府軍に攻められ、二本松少年隊も巻き込み戦ったが敗れ、建物の多くが焼失した。
明治四年(1871年)の廃城令で破却された。