磐城平城 (いわきたいらじょう) (龍ヶ城)
最寄地 福島県いわき市平旧城跡27-1 2014.4.10 2016.10.6
磐城平城 (いわきたいらじょう) (龍ヶ城)
最寄地 福島県いわき市平旧城跡27-1 2014.4.10 2016.10.6
大手門界隈
城址碑
北側石垣
北側石垣
西側石垣・土塁
丹後沢公園・堀
磐城平城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 JR常磐線「いわき駅」の北の高台に位置している。大手門跡は西側にある(地図) 。
現在残っている遺構は、石垣・土塁・水堀の一部のみとなっている。それでも城跡の雰囲気は感じ取れる。
岩城氏以来の歴史遺産を展示する龍が城美術館(表記番地)の西に石垣が残り、その脇から降ってゆくと「丹後沢公園」として整備されている(地図)。
美術館より東が本丸跡で、大半は、住宅地として払い下げられており、石碑の立つ城跡への立ち入りはできない(柵の外から眺めるのみ可能)。
【歴史】 慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの結果、それまで飯野平城を居城としていた岩城氏が追放され、慶長七年(1602年)に徳川幕府譜代の鳥居忠政が10万石で、下総国矢作から飯野平に転入した。
鳥居忠政は、都市名を戦国時代までの「飯野平」から、岩城の「いわ」の字を変更して「磐城平」に改めて磐城平藩を立藩し、飯野八幡宮を現在地(いわき市平八幡小路84)に移設し、その飯野八幡宮の跡地に磐城平城の建設を命じた。
城は慶長八年(1603年)に着工し、12年の歳月を費やして慶長十四年(1614年)に梯郭式平城を完成させた。天守は造られず、本丸の三層櫓がその代わりとなった。その姿は、「磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ」と詠われた。また、水戸を徳川頼房の本拠地にさせたのと同じく、磐城平を鳥居忠政の本拠地とさせた主な目的は、仙台を本拠地とする伊達政宗への牽制であった。
元和八年(1622年)鳥井忠政が山形へ転封され、内藤政長が7万石で上総国佐貫より入部した。
以後内藤氏六代が続き、延享四年(1747年)、内藤六代政樹は日向延岡に転封となった。
その後井上正経が6万石で常陸国笠間より入部した。
宝暦六年(1756年)井上正経は大阪城代に就任し、安藤信成が美濃国加納より入り藩主となり、安藤氏が7代続いた。
5代信正の後、信民(5歳で死去)、信勇(養子)が後を継いだが、信正が実権を持ち、慶応四年(1868年)の戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟に与した。
当時の磐城平藩家老・上坂助太夫は、磐城平攻防戦で明治政府軍軍に敗れ、自ら城を焼き払って逃走した。
信勇は明治二年(1869年)八月三日、7万両の献金と引き換えに旧領に復帰し、八月十九日には版籍奉還により知藩事となる。明治四年(1871年)七月十五日、廃藩置県で免官された。