熊倉城 (くまくらじょう) (日野城)
所在地 埼玉県秩父市荒川日野 2015.1.28
熊倉城 (くまくらじょう) (日野城)
所在地 埼玉県秩父市荒川日野 2015.1.28
登城ルート
入口標柱
大手門前堀切
南曲輪・説明板・城址碑
本丸東の空堀
本丸・土塁
本丸西の空堀
熊倉城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【案内・感想】 秩父鉄道「白久駅」より南へ「谷津川館」の東を通って約3.4㎞行くと、熊倉山の尾根の峠に着き、駐車スペースがある[マップコード 150 060 530*76 ]。
「熊倉山登山道城山コース」入口があり、その反対側に城跡入口がある(地図)。
北に登って行くと、間もなく堀切・土橋があり「大手門跡」の小さな平坦地がある。
その先に「南曲輪」があり、城址碑、説明板が建てられている。空堀で隔てて、標高648m比高40mの城山頂上の本丸跡は約60m四方と広く、南から西にかけて土塁が残る。本丸の北にも空堀がある。
【歴史】 関東管領・山内上杉氏の家老・長尾昌賢の没後、山内顕定は昌賢の弟忠影を家老とした。しかし、昌賢の子景春はこれに不満を持ち、文明六年(1474年)主家山内家に反旗を翻した。
これを知った扇谷上杉氏の家臣太田道灌は文明十年(1478年)、景春を鉢形城から追放し、長尾景春は、拠点である鉢形城・長井城を失い、秩父郡塩沢城へと逃亡、再起を期して熊倉城を築城した。
文明十二年(1480年)には景春の籠もる熊倉城を攻め、ついに景春を降伏させた。熊倉城には井戸がなく、谷津川上流より引水していたが城攻めの際、発見され落城したと云われている。景春は下総国の古河公方の下に亡命した。
その後、鉢形城の支城として上杉氏・北条氏・武田氏などの支配下に置かれ、遅くても小田原の役によって廃城になったと考えられている。