比企能員館 (ひきよしかずやかた)
最寄地 埼玉県東松山市大谷400 2023.1.3
比企能員館 (ひきよしかずやかた)
最寄地 埼玉県東松山市大谷400 2023.1.3
城が谷
城が谷案内板
比企一族顕彰碑
比企能員館跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 松山市大谷の城が谷には『埼玉県史』や『埼玉の神社誌』によると、比企能員の館があったと記されている。
住宅地となり遺構は無いようであるが、西側に横堀状の通路が見られた。
【案内】 宗悟寺(表記番地)に「比企一族顕彰碑」が建てられ、若狭の局(比企能員の娘で頼家の妻)が持参したという源頼家の位牌が保存されている。
宗悟寺は、天正二十年(1592年)に当地を知行した旗本森川金右衛門氏俊が中興した寺院である。
館跡は東方約250mにある城が谷と呼ばれる谷の付近にあったといわれ、池堤防の手前に案内板が建てられている。
【歴史】 平家追討に功のあった比企能員(よしかず)は右衛門尉に任じられ、頼朝の有力御家人になった。
建久九年(1198年)、娘の若狭局が頼家の妾となり、長男・一幡を産むと外戚として権勢を振った。
正治元年(1199年)一月に頼朝が死去したのち、十三人の合議制の1人に加えられ、梶原景時排斥にも荷担した(梶原景時の変)。
建仁三年(1203年)、頼家が病床に伏し、八月に危篤状態に陥った。北条時政は関東を一幡に関西を実朝に相続することを決めたが、これに不満を持った能員は実朝擁立を計る時政の謀反を頼家に訴え、頼家は時政追討を能員に命じた。
しかし、この密議を障子の影で立ち聞きしていた政子が時政に告げ、仏事の相談があるとして能員を時政の自宅である名越邸に呼び出した。密議が漏れていることを知らない能員は、鎧もつけず出向き、時政の手勢に謀殺された。
比企一族も時政の大軍に攻められ、防戦したが最後は自害し滅亡した。(比企の変)『ウイキペディア』より。