河越館 (かわごえやかた) (河越氏館) (国の史跡)
最寄地 埼玉県川越市上戸194 2013.9.29 2014.3.21 2024.7.16
河越館 (かわごえやかた) (河越氏館) (国の史跡)
最寄地 埼玉県川越市上戸194 2013.9.29 2014.3.21 2024.7.16
常楽寺山門・館跡碑
左から京姫・河越重頼・源義経の供養塔
河越館跡史跡公園
堀跡
塚状遺構
井戸
北西側土塁
北西側土塁・館跡碑・堀跡
河越館跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 常楽寺(表記番地)西の細い道路を北に約200m行き、東に行くと、「河越館跡史跡公園」駐車場が用意されている[マップコード14 039 379*64]。
川越市立上戸小学校の西に位置し、常楽寺には源義経夫妻、河越重頼の供養塔が建てられている。
駐車場の南に史跡公園として再現され、堀跡、井戸、塚状遺構が復元されている。また北側に堀跡、西側に土塁が残っている。
昭和五十九年(1984年)12月6日、国の史跡に指定された。
【歴史】 坂東八平氏である秩父氏の嫡系にあたる一族河越氏の初代能高、あるいは父親の重高により築かれたとされる(川越市史など)。
河越氏は、平安時代末期に河越荘の開発領主として勢力を伸ばし、自領を後白河上皇に寄進し、その荘官となった。
河越重頼のとき源頼朝に重用され、その娘(京姫・郷御前)が源義経の正妻となったが、義経没落の際に連坐して重頼は誅殺された。
しかし、その後も河越氏は武蔵国における在庁筆頭格として鎌倉幕府有力御家人の地位にあり、義経に連座して河越氏から剥奪されていた武蔵国留守所総検校職は重頼の三男・重員(しげかず)に再任され、河越館は河越氏の居館としてだけではなく、幕府の武蔵国政庁として機能した。
室町時代に至るまで、栄華を誇っていたが、河越氏は、応安元年(1368年)武蔵平一揆(山口氏・高坂氏に関連)以降没落し、一揆の大将河越直重も伊勢国に敗走して河越館に関する記録も歴史の表舞台から消えていった。
戦国時代初頭の長享の乱の際に関東管領山内上杉顕定が河越城(川越城)を攻撃するために七年にわたりこの地に陣を構えた(上戸陣)。
また、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「上戸に大道寺政繁の砦があった」と記されており、その砦は河越城(川越城)築城後も出城として機能していたと推測され、豊臣秀吉の小田原征伐の際の天正十八年(1590年)に川越城落城とともに廃城となったと考えられる。