薄衣城 (うすぎぬじょう) (米倉館)
最寄地 岩手県一関市川崎町薄衣古館44 2016.6.5
薄衣城 (うすぎぬじょう) (米倉館)
最寄地 岩手県一関市川崎町薄衣古館44 2016.6.5
登城ルート
搦手登り口
二ノ丸跡・奥に櫓台
二の丸櫓台・標柱
本丸虎口
本丸跡・説明板
三の丸跡
四の丸東空堀
薄衣城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高50m】
【案内・感想】 国道284号線「北上大橋」の東を右折、県道189号線を約800m北上川に沿って南に行くと、表記番地の先に搦手登り口があり、標柱が建てられている(地図)。100m程先に駐車場がある[マップコード199 797 669*76] (地図)。
5分ほど登ると右手に二の丸跡がある。櫓台に二の丸跡の標柱が建てられ、北端からは、北上大橋が望める。
左に行くと虎口があり、最高所に本丸跡がある。本丸跡の碑や説明板が建てられている。草は刈られ、北上川流域の眺望は素晴らしい。
東に下ると三の丸跡、四の丸跡がある。特に四の丸跡は藪化している。その先に堀切があり民家が建っている。
平成十年(1998年)7月1日、一関市の史跡に指定された。
【構造】 『仙台古城書上』には、「薄衣城」として、東西25間南北17間、二の丸として東西29間南北17間とある。
また『安永風土記』には「米倉館」として、東西52間南北30間と記載されている。
【歴史】 『薄衣系図』によると、薄衣千葉氏の始祖である千葉四郎胤堅(たねかた)が、建長四年(1252年)八月、奥州栗原郡に三千余町を朝廷から賜り、奥州の抑えとして下向、磐井郡の薄衣庄に居住し、翌建長五年(1253年)二月築城したと伝えられている。
後に、千葉氏は葛西氏の家臣として薄衣氏を名乗り、天正十八年(1590年)の豊臣秀吉の奥州仕置による葛西氏の滅亡まで当地方を治めた。