山上城 (やまがみじょう)
所在地 群馬県桐生市新里町山上297−1 2015.8.30
山上城 (やまがみじょう)
所在地 群馬県桐生市新里町山上297−1 2015.8.30
登城ルート(緑線は車道)
新里郷土文化保存伝習館
二の丸南の堀切
二の丸跡・土塁
西側空堀・土塁
本丸跡
北郭・空堀
山上城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 山上城跡公園として整備され、「市立新里郷土文化保存伝習館」(表記番地)前に駐車場が用意されている[マップコード261 012 715*14]。
西に木の橋が架けられ、南北2段になった広い三の丸跡が芝生公園となっている。その南に南郭があったが、現在は住宅地となっている。
三の丸跡の北に通路となった堀切があり、二の丸跡があり南から西にかけて土塁が確認できる。
二の丸跡の北に一段高く本丸跡があり、北端に「山上城跡」の石碑が建てられている。その北に空堀、北郭がある。本丸の東に2段になった腰郭があり、その下に常広寺や保育園敷地となっている。
特筆すべきは、本丸と二の丸の西側に南北に直線状に伸びた土塁付きの横堀が見事に残っている。
【歴史】 藤原秀郷の末裔足利太夫成行の孫家綱の五男足利五郎高綱は、12世紀後半勢多郡山上保を領し、山上氏を名乗り山上城を築いた。その後、高綱の子高光、光高、時光、時定は鎌倉幕府の御家人として活躍した『新里村誌』。
戦国時代、山内上杉氏に属したが、弘治元年(1555年)、山上氏秀は北条氏康によって山上城を奪われ、上野国に追われた。
永禄三年(1560年)長尾景虎により奪還され、氏秀は旧に復した。
永禄九年(1566年)氏秀は由良氏と共に後北条氏に転じたため、永禄十二年(1569年)上杉謙信に攻められ滅亡した。
山上城には上杉方の大胡民部左衛門が詰めた。天正八年(1580年)武田勝頼によって、膳城と共に攻められ、上杉方の大胡民部左衛門は討ち死にし、武田氏の支配下となった。
天正十年(1582年)武田勝頼が天目山の戦いで自刃し武田氏が滅亡すると、山上城は後北条氏の支配下となった。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際、山上城は片桐且元、郡宗保らに攻められ落城した。小田原征伐後、徳川家康の関東入部伴い、大胡城主牧野康成の所領となり、山上城は廃城となった。