久下田城 (くげたじょう) (県の史跡)
最寄地 茨城県筑西市樋口303 2014.4.9 2018.2.26
久下田城 (くげたじょう) (県の史跡)
最寄地 茨城県筑西市樋口303 2014.4.9 2018.2.26
登城ルート(緑線は車道)
久下田城址碑
2郭南の土塁
2郭
主郭土橋・堀・土塁
主郭西側空堀
主郭の久下田城址碑(奥)・保存会碑(手前)
久下田城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 五行川の西、筑西市樋口の北に伸びた台地に築かれている。2郭南の折れのある土塁、空堀が竹林の中に良く残っているが、ごみが捨てられ鬱蒼としていた。
主郭の三方の空堀も部分的に鬱蒼としている。稲荷神社は2011年3月の東北大震災で倒壊したが、今回は撤去され鳥居のみが残っていた。
【案内】 県道106号線「久下田下」交差点より東に県道216号線を420mほど行くと、「久下田城址」の石碑が建てられている(地図)。
北に折れ「上ホ醤油(株)」(表記番地)の東をクランクして、未舗装の道が畑の中央に北に伸びている[マップコード74 447 337*36]。
畑地が久下田城跡の2郭であり、竹林の中に南側東半分の土塁と空堀が残っている。西半分は埋められたと思われる。2郭は北側に1mほどの段差があり、篠竹の密生した中に空堀東側半分が残っている。
その北に土橋があり、空堀・土塁のある主郭がある。土橋は狭いがギリギリ主郭まで車で行けた。主郭には明治百年記念事業として昭和44年に建てられた近衛文麿の題字による「久下田城址の碑」が建てられている。
主郭の三方に空堀があり、東の階段の下には五行川から分れた用水路と水堀がある。
昭和十五年(1940年)9月4日、茨城県の指定文化財(史跡)となった。
【歴史】 天慶年間(938~48年)藤原秀郷が平将門追討のために築いた三館(上館(久下田城)・中館(伊佐城)・下館(下館城))のうち上館にあたるという伝承がある。
時代は下って結城・水谷と宇都宮氏の対立が深まっていた天文十四年(1545年)、下館城主の水谷正村(蟠竜斉)が北方の宇都宮氏から下館領を守るため、下館城の北に築城した。
天文年間、宇都宮家臣の八木岡伊織を大将とする約二百騎により攻められるも、水谷正村(蟠竜斉)がこれを撃退した。
天文年間、宇都宮家臣の武田治郎を大将とする約三千騎により城められるも、結城氏の援軍を受け水谷正村(蟠竜斉)が撃退した。
慶長二十年(1615年)一国一城令が発令され、これを受けその後、久下田城も廃城となったと考えられる。
寛永十六年(1639年)、下館藩主水谷勝隆が備中国成羽藩に転封となった。