舞鶴館 (まいづるだて) (大平城) (たいへいじょう)
最寄地 秋田県秋田市大平目長崎上目長崎217‐5 2015.7.6 2016.6.8
舞鶴館 (まいづるだて) (大平城) (たいへいじょう)
最寄地 秋田県秋田市大平目長崎上目長崎217‐5 2015.7.6 2016.6.8
登城ルート
東側入口の館跡標柱
南側登り口
南側虎口手前の平坦地
主郭跡
北側堀切
舞鶴館 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 大平川横の大平郵便局(表記番地)の看板横に登り口があり(地図)、登ると大手虎口が見られる。比高20m前後で東西60m南北200mの細長い台地にある主郭は畑地となっている。
郵便局東100mのT字路に「舞鶴館跡」の碑が建てられ、北に330m行った所にも出入口、堀切がある[マップコード303 819 668*75](地図)。
遺構は少なく、全体的に館跡を偲ぶことが出来る程度である。
【歴史】 中世、秋田郡最大の石高を誇っていた太平郷を二分して、惣領家の大江氏と庶流の一部氏(いちぶし)がいた。
二つの豪族は安東氏に属し、河辺の豊島氏とともに国人領主として独立を保っていた。
『秋田市史』によると、元亀・天正(1570~92年)、安東愛季(ちかすえ)の頃、一部氏の当主勝景が惣領家の大江氏を押えて太平郷の実権を握ったと記載されている。勝景は愛季の配下として由利荒沢で大宝寺義氏と勇猛果敢に戦い感状を与えられ、のち一部氏は「太平氏」を名乗った。
舞鶴館は大江氏の一族永井氏の居館であったが、愛季の死後、天正十七年(1589年)に起きた湊合戦で、永井広治は一部勝景と共に安東(湊)道季に加担し安東実季と戦った。
一部勝景は船越水道で討死し、道季敗退後、永井広治は消息不明となった。以後舞鶴館は安東氏の所領となり、慶長七年(1607年)安東実季が常陸国宍戸城に転封となり、代わって佐竹義宣が秋田転封となった時、廃城となったと考えられる。