板橋陣屋 (いたばしじんや)
最寄地 栃木県日光市板橋707 2021.7.25
板橋陣屋 (いたばしじんや)
最寄地 栃木県日光市板橋707 2021.7.25
城山から見た陣屋跡(茶色の2つの畑)
東側の陣屋跡(左の建物が集落センター)
日光線
北虎口・説明板
西側の陣屋跡(板橋城を望む)
板橋将監の石塔
板橋陣屋跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 板橋氏の館跡は江戸時代に板橋陣屋として利用され、現在は日光線により東西に分断され、畑地となっている。
【案内】 国道121号線より東に行った「上板橋集落センター」(表記番地)に駐車できる[マップコード132 612 534*30]。
上板橋集落センターより北側の日光線踏切先の左側に説明板が建てられ、斜めに登る道が付いている(地図)。
上板橋集落センター前の市道を約200m行った左側の常安寺跡に江戸時代になってから建てられた板橋将監の塔が祀られている(地図)。
【歴史】 日光山の遊城坊(ゆじょうぼう)が、永正年間(1504~21年)城山の砦と山麓の方形館(後の板橋陣屋)を築き居住した。
板橋氏は武蔵国(東京都)板橋領主の出で、小田原北条氏の被官・板橋将監親棟は、天文年間(1532~55年)、北条氏と鹿沼城主壬生氏が同盟関係を結ぶと、壬生氏を援助するため当地に移った。
板橋親棟は遊城坊を追い払い、砦跡に板橋城を築き、ここを拠点として武威を振るい、天正四年(1576年)鹿沼右衛門の猪倉城を攻め落としている。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの後、三ノ倉城より大給松平一生が1万石の譜代大名として板橋城に入城し板橋藩を立藩し館跡を陣屋とした。
一生の後を継いだ成重は大阪夏に陣で活躍、その功により元和三年(1617年)十月、三河西尾城に移り、陣屋は廃止された。