足利政氏館 (あしかがまさうじやかた)
所在地 埼玉県久喜市本町7丁目2-18 2020.7.25
足利政氏館 (あしかがまさうじやかた)
所在地 埼玉県久喜市本町7丁目2-18 2020.7.25
惣門
甘棠院山門
山門右の空堀
山門左の空堀
甘棠院・丸に二つ引家紋
足利政氏館跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 甘棠院(かんどういん)山門の両側に空堀があり、館跡は墓地や北の甘棠院敷地となってる。
当日は雨模様で足元も悪く西側の空堀まで見れなかった。また足利政氏の五輪塔はコロナ禍なのか閉門中であり拝観できなかった。
【案内】 久喜市にある甘棠院(表記番地)境内となっている。
駐車スペースは少なく、大門通り先に路駐した[マップコード45 245 259*46]。
【歴史】 享徳の乱(1455~83年)では、第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と争い、関東地方一円に拡大した。
足利成氏は北関東の上杉方の攻略に手間取っている間に本拠地鎌倉を今川範忠により占拠され、鎌倉に戻るのを断念し、享徳四年(1455年)下総古河城に入った(古河公方)。
延徳元年(1489年)、政氏は父・成氏から家督を譲られ、古河公方を継承した館跡と伝えられる。
両上杉家が争った長享の乱(1487~1505年)においては、扇谷上杉家を支持したが、上杉定正の死去により扇谷上杉家が弱体化すると山内上杉家支持に転換した。明応五年(1496年)の武蔵柏原合戦では山内上杉顕定と共に扇谷上杉朝良と戦う。永正元年(1504年)の武蔵立河原の戦いでは伊勢盛時(北条早雲)・今川氏親とも戦っている。
永正二年(1505年)の両上杉氏和解後は弟の顕実を上杉顕定の養子に入れた。永正三年(1506年)、嫡子・高基と対立、一時は和解したが、永正七年(1510年)の顕定敗死後の後継ぎを巡り、再び対立、さらに次男・義明とも対立し、小弓御所として独立されてしまう(永正の乱)。
永正九年(1512年)簗田氏(簗田高助ほか)や宇都宮氏に支持された高基との争いに敗れ、古河城を失い、小山氏の下に落ち延びる。
高基と不利な形で和睦することを余儀なくされ、公方の位を譲り、出家して道長と号し、小山氏の庇護も受けられなくなり上杉朝良を頼って永正十六年(1519年)武蔵久喜の館に引退した。政氏はこの館に永安山甘棠院を開山。永正十七年(1520年)には古河城を訪れ、高基と面会している。
享禄四年(1531年)、久喜で没した。