羽根尾城 (はねおじょう) (羽尾城)
最寄地 群馬県吾妻郡長野原町羽根尾299 2015.9.20
羽根尾城 (はねおじょう) (羽尾城)
最寄地 群馬県吾妻郡長野原町羽根尾299 2015.9.20
登城ルート
海野長門守の墓
北側堀切
主郭跡・城跡碑・説明板
南側堀切
二の郭跡
羽根尾城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高80m】
【案内・感想】 国道145号線(日本ロマンチック街道)のJR吾妻線を潜る手前より線路に沿って西に行った表記番地の西に北に向かう林道入り口[マップコード341 178 754*75](地図)がある。その手前の石段を登ると、弁財天の社があり海野長門守の墓がある。
入り口より林道を約250mほど行き右折、約200m登ると、「羽根尾城跡」の標識がある。付近に駐車し、登ると北の堀切があり、主郭跡がある。
比高約80mの主郭跡には「羽根尾城跡」の石碑と説明板が建てられている。土塁も認められるが、草に覆われている。主郭の南に堀切で分けられた二の郭跡があり、さらに南に三の郭跡がある。
東に送電線鉄塔が建てられ、虎口があり東側遊歩道があり、麓のアパート横に出る(地図)。
昭和四十九年(1974年)9月21日長野原町史跡となっている。
【歴史】 戦国時代に信濃源氏、滋野氏の末裔羽尾幸全入道は羽尾城を根拠として勢力を振るった。幸全の舎弟海野長門守幸光・能登守輝幸兄弟は共に武勇を謳われた豪の者で、永禄九年(1566年)真田幸隆により長門守幸光は岩櫃城代に、能登守輝幸は沼田城代に夫々任じられた。
その後、兄弟を妬む者の陰謀により真田昌幸の誤解を受け、幸光は岩櫃城で、輝光は迦葉山の女坂で自刃して果てた。時に天正九年(1581年)十一月二十九日、幸光75歳、輝幸72歳であった。『長野原町教育委員会説明板』。